ふと気が付くと幽体化していた。小さく白くて丸いこの姿をそう呼んで良いものかは分からなかったが、ふよふよと浮いて、限られた人間にしか見えないらしいこの姿を他にどう称して良いかも分からなかった。

ゴーストになるだなんて、なかなか出来る経験ではない。

どこまで高く飛べるか試してみたり、普段は入れない場所に行ってみたり、やってみたいことは沢山あった。事前にやりたいことをリストアップしておかなかったことを後悔したくらいだ。

ちなみに、どれだけ高く飛べるかは実際にやってみたけれど、どこまでも上ることが出来てやめどころが分からなくなってしまったので、適当なところで中止した。ゴーストには酸素も必要がないので息苦しくなることもなく、疲れを感じることもなく、その気になればそれこそ大気圏外まで行くことが出来てしまいそうだった。



流されるままに移動していると、見慣れた風景の場所に出た。この辺りは確か、と記憶を辿りながら住宅街を移動する。途中、犬の散歩をしている女性と擦れ違って挨拶をしてみたけれど、やはり私の姿は見えていないようだった。

秋の朝のシンとした空気が心地良い。散歩に適した季節だ。おそらく、今の体では夏の暑さも冬の寒さもあまり関係なく散歩出来てしまうのだろうけど。

しばらく道を行くと、目当ての家が見えてきた。『』と表札が出ている。間違いない、ここが彼女の家だ。

夜遅くなったときに送ったことはあったけれど、日の出ている明るいうちに訪ねたことはなかった。改めて見ると、この家に彼女が暮らしているのかと不思議な感じがする。その感覚がゴーストになったことが原因なのかは分からなかった。

せっかくここまで来たのだから一目彼女を見て行きたかった。しかし、ゴーストとは言え、果たして勝手に家の中に入って良いものなのか。まだ試していないが、そもそもこの姿は壁なんかを通り抜けることが出来るものなのだろうか。まさかインターホンを押すわけにはいかない。

どうしたものかと悩んでいると、タイミング良く彼女が家の中から出てきた。部屋着らしく、Tシャツに、中学時代のものと思わしきジャージを穿いている。彼女のこんなラフな格好を見るのは初めてで、まるで見てはいけないものを見てしまったような気分になって、思わず目を逸した。

彼女はどうやら郵便物を確認しに来たようで、ポストの中から新聞と数枚のハガキを取り出すと再び家の中へ戻ってしまう。どうすべきか一瞬だけ悩んだが、これを逃したらもうチャンスはないかもしれないと、慌てて彼女を追った。

さん、さん」

呼び掛けても彼女は何事もなかったかのようにスタスタと歩いていってしまう。

「私のこと見えますか? 声は聞こえていますか?」

実際、彼女にとっては何事もないのだろう。私がいくら耳元で呼び掛けても彼女は顔を上げなかった。彼女だけ特別私の姿が見えたり声が聞こえたり、せめて何か気配だけでも感じたりはしないかと目の前をうろうろ漂ってみたけれど、彼女と目が合うことはないのだった。

彼女はリビングでご両親と一言二言言葉を交わすと、二階の自室へ戻っていく。私もそれにふよふよ浮いてついていった。

彼女はどんな風に休日を過ごすのだろうかと思っていると、彼女が急にベッドにぽすんと倒れ込んだ。もしかしてこれから二度寝してしまうのではと心配してしまったけれど、そんなことはなく、枕元に置いてあった携帯で何やら確認しているだけのようだった。

それからまた突然がばりと起き上がると、クローゼットを開けて、その前でじっと考え込み始めた。そうしてしばらく悩んだのちに、ようやく中から一着の服を取り出した。

やはり女性は着る服ひとつ決めるだけでも大変なのだななどと考えていると、彼女が着ているTシャツの裾に手を掛けたので、私は大慌てで部屋を出た。



しばらく部屋の前で待っていると、何度か見た覚えのあるワンピースに身を包んだ彼女が出てきた。小さな鞄を手に持って、どうやら出掛けるらしい。

そのあとを追って、またふよふよと階段を降りる。女性の履く、あの可愛らしい靴に足を収めると、軽くステップを踏むように歩いていく。

もしかして誰かと待ち合わせをしているのではと疑ったのだけれど、電車に乗っても駅に降りても店に着いても誰も現れない。先程から彼女は気ままに店を覗いているだけのようだった。

彼女がふらりと一軒の店に入って服を見ているのを一緒について回った。女性の服は色とりどりで、形も凝っていて、見ているだけで面白い。そうしてあれこれ見ていると、彼女がふとひとつの棚の前で足を止めた。

色違いのカーディガンを真剣に見比べている。

「こちらの色合いの方がきみに似合うと思いますよ」

声が聞こえたわけではないのは分かっていたけれど、私の言った方を彼女がレジへ持っていったので、私はひどく満足した気持ちで店を後にした。


次に彼女が向かったのは雑貨屋だった。

店内は女性の好みそうな小さくて可愛らしいものが所狭しと並べられている。アクセサリーからぬいぐるみ、弁当箱まである。何に使うのか私には想像も出来ないものもあって興味深かった。

店の中を心ゆくまで探索してから彼女の元に戻る。すると、彼女はぬいぐるみを手に持って、じっと見つめていた。

口元がゆるく弧を描いているから、きっとこれが気に入ったのだろう。ゴーストの姿なので現金を持ち合わせていないのが悔やまれる。きっとプレゼントしたら喜んでくれただろうに。

「ふふ」と小さく彼女が笑ったのが気になって顔を覗き込めば、彼女の口から小さな声が溢れた。

「申渡くんみたい」

おそらく他の誰にも聞こえなかったであろうその独り言に、自分の心臓がドキドキいうような感覚がした。この体に心臓というものがあるのか知れないが、こういう感覚はゴーストになっても同じらしい。

さん」

思わず彼女の名前を口にする。けれどもそれはやっぱり彼女には聞こえないようで、しばらく迷った末にそのぬいぐるみを置いて店を出ていってしまった。

ゴーストになるだなんて滅多にないことで、浮いて移動したり、何の理由なしに彼女のそばにいられたり、普通では絶対に出来ないことも経験出来る。

けれども、自分の声に彼女が返事をしてくれないのがひどくさびしく、何もかもが物足りなく思える。彼女には自分が見えていないのだから、視線を合わせて笑い合うこともない。この姿では彼女に触れることも出来ない。最後のそれは人間の姿だったところでそう簡単に出来ることではないのだけれど。

この胸の内から溢れる気持ちを彼女に伝える術がないのが、ひどくもどかしかった。



「さわたりくん、申渡くん」
「ん……」
「起きた?」

やわらかい声で呼ばれて目が覚める。顔を上げると先程まで雑貨屋にいたはずの彼女がこちらを覗き込んでいた。肩に彼女の手が乗っている。

「こんなところで居眠りだなんて、珍しいね」
「私は寝ていたのですか?」
「そうだよ。申渡くんまだ寝ぼけてる?」

そう言って彼女がくすりと笑う。どうやら机の上に突っ伏してウトウトしていたらしい。体を起こすと、変な姿勢でいたせいで背中が凝り固まっていた。

「申渡くんが寝ているところなんて初めて見たよ。もしかして疲れてる?」
「いえ、決してそういう訳では……」

そういう訳ではないけれども、まだほんの少しだけ頭がぼんやりする。

「午後の日差しが暖かかったもので、つい」
「ふふ、今日天気良いもんね」

私の言葉に彼女が窓の外へ視線を向けたけれども、そこから差し込む光はすでにほのかな橙色に変わっていた。もうすっかり日は短くなり、夜がやってくるのが早くなった。

さん」
「ん? なあに?」

名前を呼べば、彼女は荷物をまとめていた手を止めてこちらを振り返る。ただそれだけのことが、ひどく特別なことのように感じる。

「……何を言おうしたのか忘れてしまいました」

名前を呼んでみただけだなんて恥ずかしくて言えなくて、まだ寝ぼけているふりをすれば、また彼女が笑い声を溢す。

もしゴーストだったなら、その声を四六時中聞いていることも出来たのだろう。けれどもその代わり、自分の言葉に彼女がころころと表情を変えることもないのだ。

やはり生身の体が一番良い。

「もし良ければ、このあと少し寄り道してから帰りませんか?」

私からの誘いを珍しく思ったのだろう。顔を上げた彼女の目が驚きでまるくなっている。そうして、ひとつふたつ瞬きをしたあと、彼女の口元がふにゃりとほころんだ。

2018.10.31