『寝台特急ひいらぎ殺人事件』


ホームを行き交う人々。時折ひどく冷たい風が吹く。トランクが地面に置かれる音、列車の駆動音。

――これに、これから自分が乗るのだ。

列車を見上げながら歩いていると、ドンと肩に何かが当たった。続けてとさりと物が落ちた音がする。

「ああ、どうもすみません」

分厚い時刻表を拾い上げると、彼はぺこりと頭を下げた。仕立ての良いコートに、きちんとセットされた髪。立派な勤め人のように見えるのに、そのひどく重そうな時刻表だけが、彼の風貌に不釣り合いだった。

「いえ、こちらこそ……」

私がそう答えると彼はほっと安心したような表情を見せ、それから腕時計で時刻を確認すると急いだ様子で列車に乗り込んでいった。

私もホームの時計を見て、慌ててそれに続いた。

発車を知らせるベルが鳴る。私たちはこれから十一時間五十八分もの長い長い列車の旅に出る。



「分かっているとは思いますが、この車両には誰も入れないように」

彼がそう念押しすると、車掌はひとつ頷いて前の車両へ移動していった。

その去っていく後ろ姿が見えなくなったところで、彼は突如、部屋の中へ駆けていった。私がそのあまりにも突然の行動に目を丸くさせている間に、彼は窓枠に顔を寄せ、次の瞬間には窓ガラスを揺らし始めた。そのガタガタと響く大きな音に、誰かが戻ってきてしまうのではと私は咄嗟に後ろを振り返って確認してしまった。

「ちょっと!」

部屋の中に入るのも躊躇われて、小声で彼を制止する。けれどもその間にも彼はバッと床に這いつくばり、床の端から端、寝台の下まで潜り込んで、何やら確認しだした。時折「ふむ」と納得したような声がする。

「何やってるんですか?! 勝手に現場に入って怒られますよ!」

怒られるくらいで済めば良い。もしかしたら、証拠隠滅したとかで彼が殺人犯として疑われてしまうかもしれないのだ。先ほどこの人が自分自身で誰もこの部屋に入らないようにと指示をしたばかりだというのに。

「ご心配には及びません」

そう言って彼は立ち上がり、ぽんぽんと軽く服に付いた埃を払う。そうして胸ポケットから名刺入れを取り出すと、そのうちの一枚を私に差し出した。手渡されたそれに目を落とすと、見慣れない文字ばかりが並んでいた。

「探偵、しん……?」
「サワタリと読みます。サワタリエイゴ」

自己紹介が遅れてしまって申し訳ありませんと言われ、そこで初めて彼の名前すら知らなかったことに気が付いた。長いこと食堂車でお喋りしていたというのに。

探偵申渡栄吾の文字が少しずつ目の前の人物に結び付いていく。

「探偵って何なんですか? 警察じゃないなら大人しくしといた方が」
「こう見えて私も巷では有名らしいので、少しくらいなら警察も目を瞑ってくれることでしょう。それに、この調子ではしばらく警察は来られないでしょうから、簡単な現場検証くらいは必要かと」

探偵だなんて胡散臭い。さっき食堂車で話していたときは礼儀正しい好青年だと思っていたことなどすっかり忘れて、私は疑念の目を向ける。この人を信頼しても良いものか、と。

「申渡さん、この車両の乗客はすべて食堂車に集めました」
「どうもありがとうございます」

それなのに、この列車の車掌もこの自称探偵をどうやら信用しているようだった。

「さあ、きみも行きましょう」

そう言って彼が部屋の扉を閉め、私を促す。窓には外の激しく降る雪と、私のひどく不安げな顔が映っていた。

「ここで出会ったのも何かの縁です。事件が起きたと思われる時刻にきみは私と共にいて、アリバイもある。ちょうど助手がほしいと思っていたところだったんです」

そう言って彼は狭い廊下を、ぐいぐいと私の肩を押して歩く。丁寧な喋り方の割に、言っていることとやっていることが強引だ。

それに、助手? 自分で言うのも何だが、私なんかに助手が務まるとは到底思えない。何を期待しているのか分からないが、それには絶対に応えられない。

そう思うのに、顔だけ振り返り目の合った彼に力強く頷かれてしまうと何も言い返せなくなってしまって、ただただ押されるがまま食堂車へ向かって歩くしかなかった。




『ドイツ蜜蜂の謎』


手の中にある名刺に書かれた名前のビルの三階。扉に下げられた看板にある『申渡探偵社』の文字。その横には何やら下手な絵が書いてある。間違いない、ここが彼の事務所だ。

「いつまで扉の前でぼーっとしているつもりですか?」

突然ガチャリと目の前のドアが開いて、中からあのときの彼が顔を出す。連絡もなしにいきなり訪ねたにも関わらず、彼は驚いた素ぶりは見せず、自然と体を横へずらして私を部屋の中へ招き入れる。

「な、なんで……」
「推理するまでもありません。窓の外を眺めていたらきみがやってくるのが見えたからですよ」

瞬きを繰り返して驚く私に、彼はなんてことはないように種明かしをしてみせた。

「どうぞ、掛けてください」

勧められるままに、ソファに腰掛ける。彼の仕事机と思われる窓際の机には『探偵』と書かれた三角錐が置かれている。自己主張の激しい人なのか、それとも形から入るタイプの人間なのか判断に迷う。

「紅茶でよろしいですか?」
「あ、いえ、お構いなく……」

きょろきょろと辺りを見回している間に、彼はてきぱきとお茶の用意を進めていく。今日はたまたま来客もなかったようだが、実際に依頼人が来たときには彼自身がこうしてもてなしているのだろう。

「どうぞ」と置かれたカップから良い香りが漂ってくる。お茶請けに出されたクッキーも小さく丸くころんとしていてかわいらしい。

「おいしい……」
「ふふ、それは良かった」

紅茶を一口含み、思わず言葉を溢せば、正面に腰掛けた彼が微笑む。あたたかな陽が差し込むここは、思いの外居心地が良かった。

もう一口とカップを口元へ近付けると「それで」と彼が言い、そこで私は今日ここを訪ねたのはこうしてお茶を飲みに来たわけではなかったことをようやく思い出した。

「それで、正式な助手になる決心がつきましたか?」
「なりません!」
「おや、それは残念です」

そう言いながらも声色は全然残念がっているようには聞こえない。彼には私の答えが最初から分かっていたようだった。からかわれている。

「では、今日は改めて先日のお礼を言いに来た、といったところでしょうか」

やはり分かってるじゃないか。この人は――この探偵は、大抵のことは何でもお見通しなのだ。




『月欠け荘の殺人』


「では、今からここが探偵事務所です」

そう言って彼は鞄の中から木の板を取り出した。トンという音とともに机の上に立てられたそれは、普段は事務所の扉に掛けられているものだった。『申渡探偵社』という文字がやたら堂々と存在を主張している。

「それ、また持ち歩いているんですか」
「どこで事件に遭遇するか分かりませんので」

たまに彼はこういう訳の分からないことをする。こんなものを持ち込まなくったって、探偵である彼がいれば必ず事件は解決するというのに。

「あれ、でもその看板、この間真っ二つに割られてしまったんじゃ……」
「新しく作り直しました。簡素な看板は何度でも作り直せるところが利点ですね」

そう言われて見れば、木は以前よりも新しく、切り口もまっすぐで、描かれている猿の絵も心なしか上達しているように思える。

前の事件では、彼の推理によって真相を言い当てられた犯人が逆上して襲いかかってきたのを、彼はとっさにこれで防いだのだ。この看板が存外有用であることはすでに証明済みだった。

それを考えると、彼の持ち物に何ひとつ無駄などないのかもしれない。




『白藤家殺人事件』


玄関の呼び鈴が鳴って、「はーい」と返事をしながらいつものようにガチャリとドアを開ける。すると、そこには長い睫毛を伏せた和装の美しい女性が立っていた。


「――以上が事のあらましです」
「よく分かりました」

私がふたり分のティーカップを運んでくると、ちょうど話の区切りが付いたところだった。お茶の準備に手間取っている間に、依頼人は事件の概要をすべて話し終えてしまったらしい。どういう内容だったのか気になるけれど、部外者が聞いて良いものか分からなかったので、席を外していて正解だったかもしれない。

「どうぞ」と話の邪魔にならない程度の声の大きさでお茶を出す。いつもの調子で紅茶を淹れてしまったけれど、和服を着ている彼女には温かい緑茶の方が良かったかもしれないと彼女の前にカップを置いてから気が付いた。

下がる前にちらと彼女の顔を盗み見ると、あの長い睫毛の伏せた先にきらりと光るものがあった。今にも零れ落ちそうなそれを堪えている姿は、まるでこの世のものでないのではと思うほど美しかった。

「探偵さん、どうかわたくしと弟を守ってください」

そう言って彼女が懇願するようにぐっと探偵の手を握る。私はぎゃっと悲鳴を上げて手に持った盆を落としそうになるのを、すんでのところで堪えた。

「ええ、尽力しましょう」

探偵の方もそう言って彼女の手に自分の左手を重ねたものだから、今度こそ盆を取り落とした。それは私の足の上に落ちて、鋭い痛みを与えたあとに、カンとひどく空虚な音を立てて床に転がった。

探偵が握る手に力を込めると、はらりと彼女の瞳から光が溢れた。

「私に任せてください」

それは彼が依頼を受けるときに言ういつもの決まり文句だったはずなのに、今回はひどく熱が込められているように思えた。


依頼人が帰るや否や、探偵は棚の中に並べられたファイルの中からふたつほど選んで取り出すと、午後のぽかぽかとした日の当たる場所に座って中身を確認し始めた。

「いつもよりも随分と乗り気ですね」
「ええ、とても興味深い事件です」

私が覗き込んで影になっているのも気にならないらしい。彼がひたすらページを捲っていく音だけが聞こえる。

「さっきの依頼人、美人でしたもんね」
「そうでしたか?」

手まで握っておいて、何をしらばっくれているのだ。



着いたお屋敷は想像の倍は大きかった。通された玄関も事務所の何倍も広く、何やら値打ちのありそうな絵画が何枚も壁に掛けられている。

落ち着きなくきょろきょろと周りを見渡していると、奥から女性がやってくるのが見えた。

「探偵の申渡です。お嬢さんから話がいっているかと思いますが」
「はい、お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ。ご案内致します」

そう言って女性が礼をする。服装からして、このお屋敷のお手伝いさんだろうか。探偵の横から顔を出すと、ちょうど顔を上げた彼女と目が合った。

「こちらは申渡さんの助手の方、ですか?」
「ええ」
「助手じゃありません!」

彼の言葉に被せるように大きな声が出た。私のいつになく強い否定に彼まで「おや」と驚いたような声を出す。私は一度だって彼の助手になった覚えはないのに。たまに事務所で来客へのお茶出しを手伝っていたとしても、ただそれだけだ。

「ええと、失礼しました。それじゃあ……」
「そういうことです。申し訳ありませんが、彼女の分の部屋も用意していただけますか?」
「ええ、客室は余っていますのでそれは構いません」

こちらへ、と案内してくれるお手伝いさんのあとに続いて歩きながらも、私の胸の中のもやもやは一向に晴れなかった。

いつもだったら私を助手だということにして押し通すくせに、今日に限って引くのも何だか気に食わない。助手だということにされても、助手らしい働きなんて何ひとつ出来なくて、期待が重いだけだというのに、我儘だ。

けれども、では助手でなければ何のためにお前はついて来たのだと問われると、私はその答えを持ち合わせていないのだった。

2018.10.24