「ただいま戻りました」
「おかえりなさい」

ガチャリとドアの開く音に続いて、この一ヶ月で聞き慣れた声。それに返事をしながらシンクの掃除をしていた手を止め、付いていた泡を洗い流す。

足音のする方へ顔を出すと、ちょうど彼がどさりとソファに身を沈め、ふぅと深い溜め息を吐き出したところだった。

「お疲れ?」
「ええ。今日は少々ハードだったので」
「お風呂すぐ入れるよ。それとも何か小腹に入れる?」

お茶は? 甘い物とかは? アロマ焚いてみる?

自分が疲れたときにほしいものを思い付く限り挙げていく。大抵はどれも栄吾が私のために用意してくれたことのあるものばかりだった。栄吾はいつもすぐに私が何に疲れているか気付いて、そのとき私がほしいものをぴたりと当ててみせる。残念ながら私には栄吾のような観察眼はないのだけれど。

着ていたエプロンを外してソファの端に掛けながらあれこれ尋ねる私を見て、栄吾が小さく笑う。

「では、キスをしてくれませんか?」

予想外の要求に、初めは聞き間違いかと思った。

「えっ、き、キス……?」
「はい。そうしたら疲れも忘れられそうです」

栄吾がこういうことを言ってくるのは珍しい。驚いて瞬きを繰り返していると、彼が私の手を引いて早く早くと急かす。

「ダメですか?」

そんな風に言われては断れない。いつも私が疲れたと溢したときに栄吾があれこれ世話を焼いてくれていることを考えれば、キスひとつくらい安いものだ。

それに、思い返してみればいつも彼から与えられるばかりで私からしたことはほとんどない。

手を引かれるままに彼の正面に立つと、栄吾が熱のこもった目でこちらを見上げる。

「じゃあ、目瞑って……」
「分かりました」

そう言って栄吾が瞼を閉じる。あの瞳が隠れれば少しはマシになると思っていた。しかし実際はそんなことはなく。自分から目を瞑るよう言ったくせに、いざこうして待たれるとさらに恥ずかしさが増すようだった。

視線をあちこちに彷徨わせてみても、ドキドキとうるさい心臓は一向に落ち着いてくれそうにない。そもそも栄吾がこんな甘え方をしてくること自体が普段では考えられないことなのだ。思いもよらないおねだりに、口から心臓が飛び出そうだった。

視線を戻すと栄吾の整った顔が、言われた通り目を瞑っておとなしくそれを待っている。その普段とは違った慣れない状況にくらくらと目眩のような感覚がした。

たっぷり数秒の間ためらって――そっと、彼の額に唇を押し当てる。

唇を離すと、目を閉じたままの栄吾の口元がゆるむのが見えた。

「ふふ」

彼の溢す笑い声に、また一気に顔が熱くなるのが分かった。

「額に、ですか」

目を開けた彼と視線が絡む。彼の望んでいるものが分かっていながら、額へのキスだなんて呆れられたかもしれない。栄吾の言いたいことは分かっていたけれども、他に何と言ったら良いのかも分からなくて、小さく「だめ?」とだけ答えた。

きゅっと、栄吾が私の手を握る力を少しだけ強くする。先ほどまで水仕事をして自分の手が冷えていたせいか、彼の手のひらがひどく熱く感じられた。

「いえ、私の奥さんは随分と可愛らしいなと思って」

そう言って栄吾がこちらを見上げて目を細める。ひどく甘い声に頭のてっぺんまで痺れてしまいそうだった。

「からかわないで」
「からかってなどいませんよ」

今さらキスくらいでと思われたに違いない。 彼からまっすぐ注がれる視線に耐えられなくなって目を逸らせば、「……ですが、そうですね」と彼が続ける。

「正直に言えば、私としてはこちらを期待していたのですが」

そう言って栄吾の手がするりと私の頬を撫でた。その親指が私の唇に触れる。

言われなくても、その場所を期待されていることは分かっていた。彼が言葉にしなかったその先も。

「ね?」

栄吾が私の手を一度離したかと思うと、するりと今度は指を絡めるように握り直される。彼の体温がもうすっかり私にも移ってしまったのかもしれない。熱に浮かされたように絡めた指を握り返すと、彼のもう片方の手が腰に回されて引き寄せられる。

「……もう一度、目を閉じて?」

いつも栄吾がそうしてくれるように彼の頬に手を添える。素直に瞳を閉じる彼の顔を見ているとまた心臓がより一層うるさく鳴り出す。もうこれまで何度も重ねているはずなのに、緊張でやり方を忘れてしまいそうだった。

ゆっくりと顔を近付けると、彼と自分の吐息が混ざり合う。

彼の手が私の背中をやさしく撫でた。

2018.09.12