蛇口を捻るとホースの先から勢いよく水が出てくる。びしゃびしゃと地面を濡らすそれを摘んで、向こうの花壇へ水を撒く。夏の日の水遣りは暑いけれども、シャワーのように落ちる水を見ていると少しだけ涼しい気分になれる。キラキラと水が光を反射させて綺麗だ。花たちも夏の光の中、どこか喜んでいるように見える。

手前の花壇に水をやり終わり、さらにホースの先を握り水圧を上げてもう少し先まで水を撒いてしまおうとしたときだった。

「わっ!」
「えっ」

ホースを向けた先から大きな声が聞こえた。あまりそちらを見ていなかったので、慌てて顔を向けると、背の高い草の向こうからひとりの男子生徒が立ち上がる姿が見えた。――そのシルエットには見覚えがあった。

「申渡くん?!」

立ち上がった彼が張り付いた前髪を掻き上げる。シャツもびっしょりと濡れ、陽の光に透けたそれが体に張り付いてしまっている。シャツの白がひどく眩しい。

私の声にこちらを振り返った彼の髪の毛先からは、ぽたぽたと水が滴り落ちていた。



「大丈夫です」を繰り返す申渡くんを保健室に押し込んでタオルを渡したあと、申渡くんから教室の鞄の中に着替えがあることを聞いて猛ダッシュで取りにいった。体力測定でタイムを計るときだってこんなに早く走れたことはないんじゃないかと思うくらいだ。

教室に着いて申渡くんの荷物のありかを辰己くんに尋ねると、私の勢いと話した事情に辰己くんはものすごく笑っていた。そんなに笑わなくたっていいじゃないかと思いながらも、申渡くんの鞄を預かって保健室に戻ると、彼はタオルでがしがしと頭を拭いているところだった。

ガラリと保健室のドアを開ける大きな音に申渡くんがこちらを振り返る。普段は分けられている前髪の間から彼と目が合って、押し付けるように鞄を渡すと、彼が口を開く前に再び廊下に出てドアを勢いよく閉めた。

ドッドッと心臓の音がうるさい。

それがとんでもないことをしてしまったという焦りからなのか、それとも保健室と教室までの間を全速力で往復したからなのか、それともはたまた全く違う理由からなのか分からなかった。

さん」

名前を呼ぶ声とともに背中のドアが動いたものだから、飛び上がって驚いてしまった。振り返ると練習着に着替え、タオルを肩に掛けた申渡くんが、中途半端に手を上げて立っていた。

「あ、申渡くん着替え終わった?」

何事もなかったかのように返事をして、するりと彼の脇を通って保健室に入る。少しだけ声が上擦っていたようにも思えるから、きちんと平静を装えていたかは分からない。もしかしたら申渡くんには何か変だと気付かれてしまったかもしれない。後ろからガラリと申渡くんがドアを閉める音が聞こえた。

意を決して振り返り、彼に向き合う。彼の前髪はもういつものように分けられていたけれども、一束だけはらりと目元に落ちているのは見なかったふりをした。開いた口はカラカラに乾いていた。

「申渡くん、さっきは本当にごめんね……!」
「いえ、植物観察に夢中になってあんなところにいた私も悪いのです」
「いやいや、私がちゃんと確認してればこんなことには」

よそ見をしていた私が絶対に悪いはずなのに、申渡くんはやさしい。制服をびちゃびちゃにされたのだからもっと怒ってもいいはずなのに。保健室に連れてくるまでの間も申渡くんは私を責めなかった。

「お詫びに何でもするから!」

パンと手を合わせて謝る。その音がふたりきりの保健室に大きく響く。

申渡くんにほんのちょっとでも嫌われたくなくて出た言葉だったのだけれど、数秒待っても申渡くんからの返事は返ってこなかった。恐る恐る視線を上げると、彼はぱちぱちと瞬きを繰り返していた。

「何でも……?」
「私に出来ないことは無理だよ?! 出来る範囲で何でも!」

高級中華料理を食べたいと言われてもそんなお金はすぐには用意出来ないし、明日の授業のノートを代わりに取れと言われても申渡くんが自分で取った方が百倍要点がまとまっていそうだし、宿題を代わりにやるのも私がやると間違いだらけになりそうだ。

「……私が出来ることあんまりないかもしれないけど」

お詫びをすると言っても、私が申渡くんにしてあげられることはあまりに少ないように思えた。むしろ出来ることをひとつ見つけることすら難しいように思える。申渡くんは私よりずっと頭が良いし、要領も良いし、ひとりで何でも出来る人なのだ。そんな人が私なんかにお願いしたいことなんてないのかもしれない。

「そんな無茶なことを言うつもりはないので安心してください」

急に落ち込んだ声を出す私に、申渡くんが「ふふ」と笑い声を漏らす。申渡くんが意地悪を言うとは思えなかったけれど、私が期待に応えられない可能性は大いにあり得た。

「着替えもきみに取りに行ってもらいましたし、本当に気にしなくていいのですが……」

そう言って申渡くんが眉を下げる。決して申渡くんを困らせたいわけじゃないのだけれど、このままでは私の気がすまなかった。

「あっ、じゃあ帰りにアイス奢るっていうのはどう!? 最近駅前に出来たアイス屋さんがおいしいって友達が言ってて! ずっと行きたいなーって思ってたんだけど――」

そこまで勢いで口にしてしまってから気が付く。

「……ってこれじゃあ私が行きたい場所に申渡くんを連れ回すだけだよね」

しかも水をかけて下手したら風邪を引かせてしまうかもしれない相手に冷たいアイスだなんて、考えがなさすぎる。どうして思いついたことをすぐに口に出してしまったのだろう。そもそも申渡くんは帰りに買い食いなんてしないタイプのように思える。やはりこれではお詫びにも何にもならないじゃないか。

「――いえ、それは少し興味があります」

聞こえてきた言葉にパッと顔を上げると、視線の合った彼が目を細める。逆に買い食いを咎められてしまうかもしれないと思っていたので、その彼の返事は意外だった。思わず声のトーンが上がってしまう。

「えっ、ホント!?」
「ええ。そのアイス屋のことは知っていましたが、なかなか行く機会がなく。何でもそこは色んなフレーバーがあるのだとか」
「そう! 沢山ありすぎてひとりで行ったら絶対悩んじゃうと思う!」

申渡くんもそのお店のことを知っていたことが嬉しくて、ゆるむ頬も隠さずに一歩彼との距離を詰めると、申渡くんがやわらかく微笑む。

「ですから、きみさえ良ければ連れて行ってくれませんか?」

彼のその言葉にまたドキリと心臓が鳴る。開いたままの窓からは、夏の爽やかな風が入ってふわりとカーテンをゆらしていた。

2018.08.18