スマホがヴヴと短く震えてメッセージの着信を知らせる。日曜の朝、まだ半分夢の中だった私は重い瞼を擦って枕元のスマホを手に取った。通知欄に見えるメッセージの送信元は辰己くんで、その珍しい相手に少しだけ目が覚める。

『栄吾が風邪引いて大変なんだ 今すぐ来て』

そのメッセージが目に入った途端、私はがばりと勢いよくベッドから身を起こした。申渡くんが風邪?!

アプリを開いてもう一度先ほどと同じ文章が表示されているのを確認すると、私はバタバタと大きな音を立てながら大慌てでクローゼットの中から適当な服を引っ張り出したのだった。



やっとの思いで綾薙の寮へ到着すると門の影から辰己くんがこっちこっちと小さく手招きしていた。走ってきたせいで乱れた息を整えながら辰己くんのもとまで行くと、にこりと微笑んで迎えてくれる。

「辰己くん、申渡くんの様子は……?」
「まだ寝てるよ」
「様子が分からなかったからとりあえず食べやすそうなものと飲み物と市販の風邪薬とか買って来たんだけど」
「ありがとう」

辰己くんの後をついて寮の中を進む。他の寮生に会ってしまうんじゃないかと思ったのだけれど、日曜で皆遊びに出掛けているのか、意外にも誰ともすれ違わなかった。

しんとした廊下は私と辰己くんの足音しか聞こえなくて、なんだかさびしい。辰己くんに遅れないように歩く私の不規則で忙しなく不恰好な足音だけがやけに大きく聞こえる。

申渡くんが風邪を引いて大変だとは聞いたけれども、病院にはもう行ったのだろうか。大変とは具体的はどんな容態なのか尋ねようと「辰己くん」と呼びかけたところで、彼が扉の前で足を止める。

「入って」
「えっと、お邪魔しまーす」

辰己くんが示したこのドアが辰己くんと申渡くんの部屋らしい。促されるままに、しかし物音を立てないようそーっと部屋に入る。持ったコンビニのビニール袋ががさりと音を立てるのが嫌に耳についた。部屋の中は電気が消され、カーテンも引かれて薄暗い。

「じゃあ何か必要なものとかあったら呼んで」
「えっ、ちょっと辰己くん」
「栄吾はベッドの下の段で寝てるよ。人が来たら教えるから」

私を部屋に入れると辰己くんは何故か出て行こうとする。引き止めようとしても辰己くんはそれを無視して「栄吾をよろしくね」とだけ言って、そのまま扉を閉めてしまった。突然部屋の内側に取り残された私は数秒扉を呆然と見つめていたのだけれど、人の気配が多いと申渡くんも落ち着いて寝ていられないのかもしれないと思い直すことにした。これはきっと辰己くんなりに病人を気遣った結果なのだと。

辰己くんがいなくなると、何となく人の部屋に無断で入ってしまったような気持ちになってしまって落ち着かない。同室である辰己くんの許可を得たとは言え、半分は本当に無断で入ってしまっているのだ。あまり部屋の中をきょろきょろと見渡すのも失礼な気がして、辰己くんに教えてもらった通りにベッドの下の段を覗き込めば、人の形に布団が盛り上がっていた。

「申渡くん?」

呼び掛けても返事はなくて、辰己くんの言葉通り彼は眠っているようだった。いつもきちんと整えられた髪が乱れて汗で額に張り付いている。眠る彼の表情は熱にうなされているという感じではないように見えるけれど、確かに具合は悪そうだ。額に張り付いた髪を避けてやると彼の髪がさらりと流れる。それに誘われるように彼の頭を撫でてしまった。やわらかい髪の感触が心地良い。

それがきっかけになってしまったのだろう。「ん……」という彼の声が聞こえて、しまったと思う間もなく申渡くんの眉間に一度皺が寄って、そのまま彼の瞼が開かれる。

「えっ、さん……?」
「お、おはよう?」

寝起きで、本来ならあるはずのない人物の姿に驚くのも無理はない。私は悪いことをしていたのを見つかってしまったような気持ちになって彼の頭を撫でていた手を少しだけ浮かした。

申渡くんが上半身を起こして枕元の眼鏡に手を伸ばす。眼鏡を掛けて彼の瞳に私の姿がきちんと像を結んだようだった。

「何故きみがここに」
「えっと、辰己くんから応援要請を受けまして……。申渡くん具合はどう?」
「元々体調がひどく悪いという訳ではなく。朝起きたら少々熱っぽい気がしたので、もし辰己に移るようなことがあってはいけないと今日はこの部屋以外で過ごすように言ったのですが」

そう言って彼は困ったというように眉を下げてみせる。申渡くんが体調を崩すなんて珍しいから辰己くんも動揺したのだろうか。今日は休日で、看病の出来そうな人たちは皆出払っているようだったし。

「薬は飲んだ? 色々買ってきたけどヨーグルトとか食べる?」
「ありがとうございます。そうですね、いただきます」

持参したコンビニの袋からヨーグルトを取り出す。来たからにはきちんと看病しなくてはと、起き上がってはいるものの何となく熱でだるそうな申渡くんの代わりにプラスチックスプーンの袋を開け、ヨーグルトの蓋を開ける。

「はい、あーん」

そう言って流れでスプーンを差し出してしまってから気が付いた。

「あっ……」

思わずしまったという声を漏らせば申渡くんも驚いたように瞳を丸くさせている。当然だ。同性の友達だとか、小さい子どもにやるのならともかく、申渡くんは同い年の男の子の友達だ。何も考えていなかった自分の行動に頬が熱くなるのが分かった。目が合ったままの申渡くんが丸い目を一度ぱちりと瞬きさせる。

しかし、そのあとすぐにそれは消えていつもの表情でまるでなんてことのないようにぱかりと口を開けてそのままスプーンの上のヨーグルトを食べたものだから、今度は私が目を丸くさせる番だった。

もしかして、病人なのだし、やっぱり本当に体がつらいのかもしれないと思って二口目を差し出せば、それも彼はぱくりと食べた。

「えっと……おいしい?」
「ええ、とても」

この状況に落ち着かなくて、思わずどうでも良いことを尋ねてしまう。コンビニで買った普通のヨーグルトなのにそんなことを聞いてどうするのかとも思ったのだけれど、申渡くんは眼鏡の奥でふわりと目を細めて答えるものだから、私の心はさらにざわざわと騒がしくなってしまった。

申渡くんがヨーグルトを食べ終わると、彼がこちらに向ける視線が気になって仕方ない。

「申渡くん、お水とお薬」

今度は袋の中から薬と水のペットボトルを差し出すとこれも彼は普通に受け取る。水を飲む彼の喉が動くのを何となく見てはいけないような気がして、思わず目を逸らしてしまった。

飲み終わった水を受け取って申渡くんの肩をそっと押せば、彼はゆっくり横になった。彼の眼鏡を受け取って丁寧にベッドサイドに置いてから、その体に布団を掛けて整える。いつもしっかりしている申渡くんがこんなにもされるがままなのは慣れなくてなんだかこちらが落ち着かない気持ちになった。

布団をきちんと掛けて、ぽんぽんとその上から肩を叩くと「ふふ」と彼の口から笑い声が漏れた。

「きみが来てくれるとは思いませんでした。風邪を引くのも悪いことばかりではありませんね」
「申渡くんのためなら来るよ」

言ってしまってから何だかすごいことを口走ってしまったような気がして、慌てて言葉を続けた。

「えっと! 申渡くんにはいつもお世話になってるし助けてもらってばかりだし、風邪じゃなくてもいつでも呼び出してもらえれば」
「呼び出しても良いのですか?」
「あの、それは……うん」

申渡くんに呼び出されたとしたら喜ぶのはきっとこちらの方だ。

ちらりと申渡くんの方を見ると、顔だけをこちらへ向けていた彼が寝返りを打って体ごと横に向ける。くしゃりと、枕側の髪が乱れている。

「きみが来てくれて良かった」

そんなに大した看病もしていないし、私が来ない方がゆっくり寝ていられたとも思うのに、申渡くんはまるで私が特別なことをしたかのように言うのだ。

「辰己にはお礼を言わねばなりませんね」

「ふふ」とまた彼の笑う声が聞こえた。熱のせいだろうか、今日の申渡くんはいつもよりふわふわしているような気がする。けれども、それ以上に私の頭の方がまるで熱に浮かされたかのようにふわふわとして物がよく考えられなかった。

2018.08.05