「ね、行こう!」

少しばかり強引にこちらの手を引いて歩き出す彼女は、申渡にとっていつも眩しい存在だった。

はいつも明るく、こちらを振り返って見せる笑顔はエネルギーに満ちていた。

申渡は自分も行動力のある方だと思っていたが、のそれは自分とは少しだけ違った。休日に経験値上げのためひとりでどこへでも出掛けることにためらいを感じたことは一度もなかったが、彼女に手を引かれるのはそれとはまた違った心地良さがあった。きっと自分はこんな風に人を連れていくことは出来ない。

一歩踏み出したかと思えばくるりと振り返って、「申渡くん」と眩しいほどの笑顔で自分の名前を呼ぶ声に、くらりと目眩に似た感覚を覚えたのも一度や二度ではない。

そんなを自分にとって“特別”だと、申渡が自覚するのにそれほど時間は掛からなかった。



コツリと、自分の靴の立てる音がやけに響いたように感じられた。

姿が見えないを探して、資料室までやって来た申渡は無事見慣れた後ろ姿を見つけてほっと息を吐いた。電気のついていないその部屋で、彼女はほのかなオレンジ色の差す窓辺に立っていた。

さん?」

名前を呼ぶと、窓の縁に掛けた彼女の手がびくりと震える。その様子がおかしいと申渡が気付いたのは彼女が振り返る一瞬前だった。

つと、振り返り視線を上げた彼女の目元がきらりと夕日に反射した。はっきりとと視線が交わったのに、申渡は咄嗟に声を出すこともその場を動くことも出来なかった。その間にふいとが頬を流れるものを隠すように顔を背ける。

一瞬見間違えかと思った。地団駄を踏んで大げさに悔しがる姿だとか、人のために悲しむ表情を見たことはあったけれども、今までが涙を流す姿を申渡は見たことがなかった。

「どう、したのです……?」

彼女の頬を涙が静かに伝う。がこんな風に静かに泣く姿など想像したこともなく、申渡は柄にもなく動揺する。

「誰がきみを泣かせたのですか」

言葉を掛けるたびに、はらはらとその目から雫が溢れ落ちる。

申渡の言葉に返そうとする彼女の口元が感情を押し隠すかのようにかすかに歪む。――彼女の表情が歪むのを申渡は初めて見た。

彼女はこんな表情もするのかと申渡はハッと気付かされた思いだった。

「あきらめきれない……」

うっかりすると聞き逃してしまいそうなほど小さな声が薄く開いた彼女の唇から漏れる。

「忘れようと思っても忘れられないの」

何を、という問い掛けは音にならなかった。

の唇が一度何かに堪えるようにきゅっと引き結ばれる。そのあとに再び開いたそれはかすかに震えていた。

「ずっと好きで、まだ好きで。こんなにも好きだったなんて今まで知らなかった……」

その言葉で、申渡は彼女の泣いている理由を察した。には想う相手がいることを申渡は以前から知っていた。もっとも、“いる”ということだけで相手の顔も名前も知らなかったのだが、申渡には彼女の恋が上手くいかなかったことが信じられなかった。あんな、誰もを惹きつけるような明るさを持ったが振られるなんて。相手は一体どんな男だったのだろう。が好きになる男は――。

聞かなくても分かる。彼女に似合いの男だろうということくらいは。

「――無理に忘れなくても良いのではありませんか」

申渡の言葉にが顔を上げる。その目からまたぽろぽろと新しい涙が溢れている。

早く忘れてくれた方が申渡にとっては好都合だ。けれども彼女がその男を想ってきた時間を、想いの大きさを考えれば、申渡には言えなかった。

その涙が自分のためのものだったら良いのに。

思わず手を伸ばしたものの、触れて良いものか戸惑って空中で一度止める。その伸ばしかけた手にが驚いたように目を丸く見開く。その彼女の表情に、一度はためらったはずの手が、吸い込まれるようにその頬に触れた。

あたたかい涙で濡れた頬はやわらかく、触れると彼女の目にまたぷくりと膜が張る。

人差し指で出来るだけそっとやさしく涙を拭ってやる。その間にも瞼の淵に溜まった雫が溢れて申渡の指先を濡らした。

「それだけ、好きだったのでしょう?」

こんなにも際限なく溢れる涙はすべてひとりの人のためのものなのだ。それほど想われる相手はどれほどしあわせだろう。

「でも、いつまでも見苦しいって思わない?」
「きみは、一途なのですね」

いつもまっすぐな彼女らしい。もう一度目元を拭ってやり、そっとその背中に手のひらを添えると、彼女の肩が一度震える。何か言われるかと思ったが、それきりが息を詰めたままでいるのを良いことにそのまま腕に力を込めて引き寄せる。

どれだけそっと丁寧に触れても、それでも足りないように思える。もう少しだけ強く抱きしめても良いのか、その髪を撫でても良いものなのかも分からない。

とんとんと背中をたたくと、長く熱い息が彼女の口から漏れた。

「やさしくしないで……。本当にあきらめきれなくなっちゃう」

やさしくしたい。今まで彼女からもらってきたものを返したいと思うのに、けれども申渡はその方法を知らないのだ。

2018.07.27