門の先にある寮の中からはあたたかな光が漏れている。それに比べて私のいる場所は電灯の影になって少しだけ暗い。いつも日が暮れてからの帰り道は必ず栄吾先輩と一緒だったから気付かなかった。

昼間、中等部に用事が出来たと連絡を入れて、私のところまで栄吾先輩が会いに来てくれたのはほんの数時間前のことだ。そのときは思いがけず会えた喜びでいっぱいだった。けれども、あくまで用事のついでに忙しい合間を縫って私のところに来てくれたので、栄吾先輩とお話出来る時間はいつもよりずっと少なかった。別れ際、栄吾先輩の『そろそろ行かなくては』という言葉にも、『では、また』とやさしく微笑んで手を振る先輩にも、きちんと笑顔を作って手を振り返すことも出来ていたのに。栄吾先輩が高等部の校舎へ帰っていく姿を見て、ぷすりと胸に針で穴を開けたかのような感覚がした。

その感覚は時間が経つにつれてどんどん大きくなっていってしまって、放課後のレッスンも終わって家の最寄り駅まで来たというのに、衝動的に反対方向の電車に乗ってまた綾薙学園まで戻ってきてしまった。

栄吾先輩と付き合っているのだから、多分、もっとお話したかったと素直に言えばきっとすぐに電話を掛けてくれて、すぐに次に会う約束を作ってくれて、私をなだめるやさしい言葉を掛けてくれたのだろう。頭の隅では分かっていたのに、私はそれが待てなかった。

「誰だ?」

不意に声がして俯いた視線を上げると、栄吾先輩と同じ綾薙学園高等部の制服を着たふたり組が不審そうな目でこちらを見ていた。タレ目で何だか強そうな雰囲気の人と、背が高くてやわらかい雰囲気の人のふたりは私から視線をそらすことなく「おい、コイツ知ってるか?」「さぁ? 綾薙の中等部の生徒だっていうことは分かるけど」と会話を続ける。

「もしかして誰かのストーカーだったり」

さぁっと血の気が引くのが自分でも分かった。連絡もしないで勝手に寮の前でいつ帰ってくるかも知らない相手を待っているなんて、ストーカーと間違われても仕方がない。

「あれ? もしかして図星?」

暗くても顔が青くなったのが分かったのだろう。彼らも半分冗談のつもりだった言葉に動揺する私を見て目を丸くさせた。“図星”という言葉を聞いてさらにびくびくと挙動不審になる姿は怪しいことこの上ない。

もしも、栄吾先輩が私の行動を迷惑だと思えば、私は立派なストーカーになってしまう。

「あの、私、えい――申渡先輩の……」
「申渡?」

目の前のふたりは栄吾先輩のことを知っているらしい。私の言葉を繰り返すとふたりで顔を見合わせた。

「アイツの妹か?」
「申渡って妹いそうな感じじゃないよねぇ」
「じゃあ親戚か何かか?」
「『先輩』って言ってるんだから普通に中等部の後輩じゃない?」

きっと栄吾先輩と同じ綾薙学園高等部の生徒には違いないのだろうけれど、目の前に立たれると威圧感がある。栄吾先輩の友達の辰己先輩や月皇先輩たちとは違った雰囲気だ。せめてそのふたりに会えたら良かったのだけれど。知らない人に見下ろされていると、何だか急に知らない場所に来てしまったのだという心細さが襲ってくる。

「中学生が出歩くにはちょっと遅い時間だよねぇ」

ぎくりと今度こそ図星を指されて身がこわばる。彼らの言う通り、門限を守るためにはもう家の前に着いていなければならない時間だった。栄吾先輩の後輩だと明かさなければ良かったと後悔したけれど、もう遅い。さらに身を縮ませると、背の高い方の先輩が「これじゃあ俺たちがいじめてるみたいだなぁ」と苦笑する。

彼らが私を心配して声を掛けてくれたことは分かっているのだ。けれども、心細さと勝手な不安と後ろめたさでいっぱいになっている私は彼らの言葉に答えることが難しかった。

――私では栄吾先輩の妹か、親戚か、そうでなければただの中等部の後輩にしか見えないのだ。彼らのその選択肢に、がんと頭を殴られたかのような感覚を覚える。

?」

聞き慣れた声にぱっと顔を上げると、「ナイト様のご到着だ」と目の前の彼が言う。振り返るとずっと待っていた人の姿がある。

「栄吾先輩っ!」

駆け寄って彼の制服の裾をぎゅっと握ると、栄吾先輩は驚いたように目を丸くする。昼間会ったばかりの私がこんなところで待っているなんて思いもしなかっただろうから当然だ。栄吾先輩と会えたことに安心してさらにブレザーをぎゅうぎゅうと握ると、栄吾先輩がなだめるようにやさしく私の背中をとんとんと叩く。

「ちゃんと面倒見とけ」
「北原くん南條くん、ご迷惑をお掛けしてすみません」

私もふたりにお礼を言わなくてはと思ったのだけれど、私の背に触れる栄吾先輩の手のあたたかさに何かが溢れそうな気持ちになって声が出なかった。栄吾先輩の印象が私のせいで悪くなってしまうから、きちんとお礼と謝罪をしなきゃいけないのに。

ふたりが寮の中へ去っていくと、今度は栄吾先輩の視線が私の頭のてっぺんに注がれているのが分かった。きっと言いたいことが沢山あるのだろうということも。

「こんな時間にどうしたのです? 連絡してくれれば私が――」
「ごめんなさい」

栄吾先輩の言葉を遮るようにして、顔が見えないように頭を下げる。「ごめんなさい」ともう一度謝罪の言葉を口にすると、栄吾先輩が「」と私の名前を呼ぶ。先輩の声はいつもと同じやわらかいものだったけれど、ほんの少しだけ咎めるような響きがあった。やはり怒っているのだ。

早めの時間に帰らされてしまうことにも、あまり遠出が出来ないことにも、栄吾先輩と一緒にいられる時間が少ないことにも今まで『まだ帰りたくない』なんて我儘は口にしたことがなかった。先輩を困らせたくなくて、先輩に愛想を尽かされないように、なるべく聞き分けの良い子でいるように心掛けてきたのに。

もし私が同じ高校生だったならきっとこんな風に思わなかったのに。高校生だったらきっと門限ももう少し遅いし、もっと色んな場所に行けたし、もう少し自分に自信が持てたかもしれない。

「今日は、どうしたのです?」

栄吾先輩の困ったような声。今日の自分の行動の何もかもがおかしいことは自覚している。

こんなにも一年の差がもどかしく感じるとは思わなかった。出会ったときから彼は私の先輩で、年上じゃない栄吾先輩なんて想像も出来ないくせに、もう少し私が大人だったらいいのにと思ってしまう。あと少し待てば、私だって高校に入学するというのに、その数ヶ月がひどく長く感じる。

栄吾先輩が中等部を卒業するときに感じた淋しさは、きっとすぐに薄れるのだろうと思っていた。卒業してからも先輩と会う理由を私は持っているのだから大丈夫だろう、と。栄吾先輩が私を悲しませることをするだなんて考えられなかったし、実際そうならないように彼が心を向けてくれていたことを知っている。知っているのに。

ずっと言うことのなかった言葉が口をついて出てくる。

「はやく高校生になりたい……」
「それは……少し困ります」

栄吾先輩なら私の気持ちを分かってくれると思っていたのに、返ってきたのは予想外の言葉だった。ぱっと顔を上げると、目の合った栄吾先輩が眉を下げた。

「きみは綾薙以外の高校へ行かなくてはなりませんから」

綾薙の高等部は男子校だ。来年の四月になってももう一度栄吾先輩と同じ学校に通うことは出来ない。先輩が中等部を卒業する前のようにはならないことは分かっている。けれども何となく、栄吾先輩も私が同じ高校生になるのを待っているものだと思っていた。

「私の知らない場所に行ってしまうのが、すこしだけ不安なのです」

そう言って、栄吾先輩の手のひらが私の視界を覆う。先輩の手のひらの触れるあたたかさに安堵する。

「私もこんな我儘を思っているのです。きみももっと甘えて良いんですよ」

先輩のやわらかい声だけが聞こえる。

こんなことをしなくったって、もうとっくに私には栄吾先輩しか見えなくなっているのに。

2018.07.17