「栄吾、失恋したらしいよ?」

私がそのことを知ったのは辰己くんの言葉からだった。

「……それって、本当?」

かろうじてそれだけを聞き返した私の声は少しだけ掠れていた。口もカラカラに乾いている。申渡くんが最近暗い表情であることを辰己くんに相談しただけだったのに、返ってきた思いもよらない言葉に心臓が激しく打つ。

申渡くんに好きな女の子がいたというのも初耳だった。

男子校だし、申渡くんから他の女の子の話を聞いたこともないし、そんな素振りを本人もチームの皆も見せたことがなかった。後輩の女の子から特に人気があることは知っていたけれど、本人にはその気はなく、最大のライバルはミュージカルだと思っていたくらいだ。

「相手に告白したわけじゃないらしいけどね。その子には好きな人がいたんだって」
「それは――」

何と返事をしたら良いのか分からなかった。残念だね? 良かった?――そのどれも答えとして適切でない気がして、やめた。それらの言葉を飲み込んで、代わりに「でも」と私が口を開くと、窓の縁に手を掛け外を眺めていた辰己くんがこちらを振り返る。

「でも、申渡くんほど格好良ければとりあえず告ってみたら案外オーケーもらえたかもしれないのに」
「栄吾自身がそういうこと出来ないの、分かるだろう?」

そう言われるとぐっと詰まってしまう。確かに申渡くんはそういうことをしそうにはない。それは誰よりも私が感じていたことのはずだった。そういう風に女の子と付き合ったりしないだろうなと思っていたから、私も申渡くんに簡単に告白することが出来ずにいたのだ。

申渡くんでも上手くいかないことがあるという事実がなんだか信じられない気持ちだった。しかも、あんなに格好良くて優しい申渡くんが、恋愛で。

「この話、俺が言ったってことは内緒だよ」

そう言って辰己くんがぽんと私の肩を軽く叩いて横を通り過ぎる。話が終わって帰るのかと思ったのだけれど、不意に「栄吾」と私の向こうに呼びかけたので思わずビクリと肩が跳ねてしまった。それに気付いた辰己くんが少しだけ笑ったのが分かった。

振り返ると、部屋の入り口に申渡くんが立っていた。

「ああ、辰己、ここにいたんですね。卯川が探していましたよ。昼間借りたノートを返したいとかで」
「ありがとう。じゃあ俺は行くよ。またね、さん」

ひらひらと手を振りながら、辰己くんがこちらを振り返りもせずに部屋を出て行く。てっきり申渡くんも辰己くんと一緒に戻ると思っていたのに、彼はそこから動かなかった。

「どうかしたの?」

申渡くんの前でどんな顔をして良いか分からなくて、勝手に気まずい気持ちになる。けれども沈黙の方がもっと堪えられなくて尋ねると、彼は少し困ったように笑う。

「施錠を、しなくてはなりませんので」
「ご、ごめん! すぐ出る!」
「慌てなくて良いですよ」

さすがに外部の人間が戸締りを代わることは出来ない。辰己くんが先に帰ってしまった今、それが出来るのは申渡くんだけなのだ。よく見ると彼の手の中には鍵が握られていて、辰己くんへの伝言はついでで、本当はそのために彼がここまできたのだということにようやく気が付く。

急いで荷物を鞄の中に放り投げながら、ちらりと彼の様子を窺う。窓の方へ視線を向ける申渡くんの横顔は夕日の影になっているせいか、ひどく物悲しそうに見える。やはりここ数日感じていたのと同じようにどこか元気のないように思えた。

「……申渡くん、今度の日曜どっか遊びに行かない?」

――これはチャンスなのだと思った。

「最近暗い顔とか溜め息とか多いみたいだから」

申渡くんが失恋して落ち込んでいるのだとしたら、それにつけ込んでしまえばいい。失恋のショックを忘れるためには次の恋をすればいい。次は私に。

「ほら、気分が落ち込むことはパーっと遊んで忘れちゃうのが一番というか!」
「お気遣いありがとうございます。でも――」
「ね! 申渡くんはどこ行きたい?」

彼の腕を掴んで無理矢理問えば、彼は困ったような表情から私の強引さに諦めたような顔をして、ちょっとだけ笑った。



申渡くんが指定した場所は遊園地だった。彼ならもっと美術館とか静かな場所か、そうでなければ経験値上げのために普段なかなか行く機会のない場所を選ぶと思っていたから意外だった。私は遊園地とか思いっきりはしゃげる場所は大好きだから嬉しかったのだけれど。

雲ひとつない空からは日差しがきらきらと降り注いでいる。絶好のお出掛け日和だ。この日が晴れるよう、数年ぶりに何個もてるてる坊主を作った。その私の必死な思いが窓に吊るされたそれを通じてきちんと神様に伝わったのかもしれない。

「申渡くん、今度はあっちの方に行ってみよう!」
「それでは、あちらに見えるアトラクションはいかがですか? マイナス三十度の世界を体験出来るそうですよ」

ちょんちょんと彼の袖を引っ張って急かせば、手元のパンフレットを覗き込んでいた申渡くんが顔を上げる。その視線を辿れば、屋根にしろくまのキャラクターが乗った建物が見えた。マイナス三十度と聞いても、それがどれほど寒いのか想像もつかない。

「面白そう! ね、申渡くん、早く!」
「はい」

くるりと振り返ればスカートがはためく。前日の散々悩んで決めたそれを、朝待ち合わせの駅で『素敵なスカートですね』と申渡くんが褒めてくれた。『似合っていますよ』とも。それがひどく嬉しくて、自分のスカートの裾が視界に入るたびに彼の言葉を思い出してはにやつく口元を隠すのに精一杯だった。それでも幾分かは隠しきれていなかったかもしれない。

上にはしろくま、横には雪だるまのキャラクターが迎えるその建物はよく目立って、迷うことなく辿り着くことが出来た。

申渡くんが入り口のドアを開けてくれる。足を踏み入れると、外とは明らかに違うひやりとした空気が肌を撫でた。

「氷に光がいくつも反射して、綺麗ですね」

オーロラを模した色の光がゆらゆら揺れている。タイミングが良かったようで、さほど広くない館内には私たちだけしかいなかった。寒さのせいか、囁くように静かな声が耳にくすぐったかった。それに私は頷いて応える。

世界から、ここだけが切り取られたような気さえする。

「寒さは大丈夫ですか?」

吐き出す息は白い。確かに氷点下の中にいるはずなのに、なんだか指先まで熱いような気がするのだ。



楽しげで明るく愉快な音楽。やわらかくも美しい金色で飾られた二階建てのメリーゴーランド。幻想的な光に包まれたそれを見上げながら歩いていると「さん」と彼が私の名前を呼ぶ。

数歩分先で立ち止まって私を待つ申渡くんの顔が、その光のおかげですっかり日が暮れてしまっていてもはっきり見える。メリーゴーランドから目を離して、「ふふ」と漏れ出る笑みを隠しもせずに彼の元へ駆け寄ると、申渡くんが眩しそうに目を細めた。

「申渡くん、次はどうする?」
「では、最後は観覧車に」

そう言って彼が向こうに見える大きな観覧車を指差すのにつられて、私も首を上へ傾ける。観覧車それ自体が大輪の花火のようにきらめいている。

「夜景がよく見えそうだね」

てっぺんからはまるで宝石を散りばめたような港の光が見えるのだろう。私たちが今いる場所も、上からはまた違って見えるに違いない。

「今日は、ありがとうございます」
「楽しめた?」
「ええ、とても」

あちこち色んなアトラクションに連れ回し、沢山騒いで沢山笑っていたのは私ばかりのような気がしたのだけれど、彼の言葉にほっとした。

「きみもずっと楽しそうにしていましたね」
「それはもちろん!」

弾む声で答えて彼を振り向く。申渡くんも笑っていてくれるだろうと思っていたのに、イルミネーションに照らされるその顔は私が想像していたどれとも違った。

あの日、夕日の中で見たのと同じ横顔だった。

「……私もずっと来てみたかった場所なので嬉しいです」

申渡くんが観覧車を見上げて目を細める。彼の正面で赤から青、そして緑へ、きらきらと色を変えながら回るそれに目が眩む。

――私はバカだ。

その何だか泣き出しそうにも見える彼の表情を見て、やっと気が付いた。今申渡くんが心に思い描いているのは私じゃないということに。

申渡くんが来たかったのは、彼が片想いしていた、その“好きな女の子と”だったのだ。遊園地なんてデートの定番じゃないか。もしかしたら、申渡くんは今日一日私を通してその女の子を見ていたのかもしれない。そう思うと、胸の奥がぎゅっと痛くなった。辰己くんから知らされたときもこんな痛みは感じなかったのに。

「どうかしましたか? 顔色が悪いように見えますが」
「えっ、そ、そうかなぁ? ちょっとはしゃぎすぎて疲れちゃったのかも?」
「無理はいけません。そこのベンチで少し休みましょう」
「大丈夫だよ」
「ほら」

そう言って彼が私へ手を差し出す。いつもだったらドキドキしながらも手を取るのに、今はもうそれが出来なかった。

彼にとって、私じゃ意味がないことに気付くのが遅すぎた。――いや、本当は分かっていたつもりだった。分かっていて、それを利用してやろうとしていたのに。彼が私じゃない他の誰かを好きだったということがどういうことなのか、きちんと理解していなかった。そんなことにも気が付かなかった。

誰も乗っていない木馬が明るく、しかしどこか郷愁的な音楽とともにゆっくり回り始める。

「ふらつくようなら掴まってください」

申渡くんはやさしい。申渡くんを心配するふりをして、傷付いた彼につけ込むような真似をする私とは大違いだ。自分が恥ずかしい。私は、申渡くんの気持ちなんて何ひとつ考えていなかった。こんな人間を申渡くんが好きになるわけがない。ぐるぐると頭の中を駆け巡る考えにズキリズキリとまた胸が痛む。

咄嗟に彼の手を跳ね除けると、ぱしりと乾いた音が響いた。

「本当に大丈夫、だから」

私はどうしようもなく失恋していたのだ。

2018.06.20