申渡くんの前髪の一部がぴょこんと跳ねている。

「遅れてしまってすみません。今朝は星谷くんの悲鳴で目が覚めまして……。詳細は省きますが、彼を助けていたらこんな時間に」
「そ、そうなんだ。大変だったんだね」

申渡くんが約束の時間を少し過ぎてしまったことを丁寧に、誠意を込めて謝ってくれている。こちらもそれに応えてきちんと聞かなくてはならないと分かっていたのに、私の視線は申渡くんの目よりも少し上ばかりを見ていた。

たまにレッスン後など申渡くんが汗をかいたときに他の髪よりちょっとだけ飛び出したりしている部分だから、きっとそこだけくせ毛が強いのだろう。けれども、今日はそれとは比較にならないくらい元気だ。きっと星谷くんを助けるのに必死で、本当に朝の身支度の時間がなかったのだろう。私を待たせないよう相当急いで来てくれたみたいだし。

「今すぐ準備しますので」

そう言ってこちらに背を向けた彼の後ろ姿からも、横に髪が飛び出ているのが分かる。急いでいるせいでその揺れる動きも大きく、思わず私の視線もまるで猫のようにそれに合わせて上下に動いてしまう。

数秒見入ってしまってから、こんなことをしている場合ではないことに気が付いた。ぼーっと見ていないで早く教えてあげなきゃいけないのに。

「ね、さわた――」
「しっ」

声を掛けようとしたところに、辰己くんがその間に顔を出して視界を遮った。人差し指を自分の唇に押し当ててにっこり微笑む。

「辰己くん……?」
「珍しいだろ?」

「だから、ね?」と辰己くんが目配せをする。確かにこんな申渡くんは珍しい。もう少しこの姿を見ていたいという気持ちも分からなくもない。

卯川くんを見ると、私と同じように口止めされたのか、少しだけ居心地悪そうにしている。虎石くんはきっと気付いているだろうけれど言うつもりがないのか普段通りにしているし、戌峰くんは気付いているのかいないのかよく分からなかった。

さん」

名前を呼ばれて振り向くと、申渡くんが戻ってきていた。

「すみません、少し相談したいことがありまして。ここと、ここの部分なのですが――」

そう言って申渡くんが持っているバインダーに挟んだ紙の上をトントンと指で示す。

申渡くんの制服のネクタイはいつもきゅっと結ばれていて、シャツの裾もしっかりしまわれ、背筋も綺麗に伸びていて、髪はもちろんどこもかしこもきちんと身嗜みが整えられているから、こういう隙のある姿というのは珍しい。見たことのない申渡くんを目にしたせいか、心臓のあたりがむずむずとして落ち着かない。もしかして寝起きはいつもこうなのだろうか。

「……今日は随分と注意力が散漫ですね」

その言葉にドキリとする。散漫どころか申渡くんの話は半分も頭に入ってきていないのだ。視線を下げるとじっとまっすぐこちらを見つめていた申渡くんと目が合う。

「一体、どこを見ているのですか」

目の前の彼は眉間に皺を寄せて不機嫌そうな表情だ。これも普段見ない申渡くんだった。いつも冷静であまり感情を表に出さない彼のその表情を真正面で受け止めてしまって、思わずぐっと息が詰まる。

けれども、その真剣な表情とは対照的に、申渡くんが喋るのに合わせてまたくせ毛が揺れる。

その後ろで辰己くんが堪え切れずに吹き出しているのが見えた。辰己くんがもう少し黙っていようと言ったくせに。

「ごめん、申渡くんの前髪が気になって……!」

パンっと手を合わせて謝る。あまりにも突然の謝罪に、「前髪?」と申渡くんが瞬きを繰り返す。本当に気が付いていなかったらしい。すっと彼に手を伸ばすと、申渡くんが身構えた。

「ここがいつも以上に跳ねてるから……」
「えっ? あ……」

私がそこに触れると、申渡くんは自分のくせ毛に気が付いたのか、少しだけ目元を赤らめた。さらりと彼のやわらかい髪が指の間をすり抜ける。視線を伏せておとなしく髪を梳かれる申渡くんはいつもの大人びた雰囲気が隠れて、何だか少しだけかわいらしく思えた。

「やっぱり手じゃ直んないね。こっち来て、水とくしで直るかな」

何度か手ぐしを通してみたけれどもやはり直らない。諦めて前髪に触れていた手を離し、代わりに彼の手を引く。水道でちょっと前髪を濡らして、鞄の中に入っているくしを使えば何とかなるかもしれない。

向こうで虎石くんがにやにや笑いをこちらへ向け、辰己くんはもうすでに表情を隠しきれていなかった。

もう面白がって!と軽く睨んでみたけれども、ふたりには全く効果がないようだった。笑いの漏れているふたりの脇を通り、そのまま申渡くんを連れて廊下に出る。

「――じゃあこのあと栄吾がどうするか、賭けでもする?」

ドアが閉まる直前、辰己くんのよく通る声が聞こえた。

2018.05.29