「――きみも程々にしてください」
「分かってるって。何なら今日は一緒に行くか?」
「私の話を聞いていましたか?」

久しぶりに港に停泊したのでいつものように買い物に付き合ってもらおうと、私はアルベールを探して船内を歩き回っていた。やっとティエラと話している彼を見つけ、名前を呼ぼうとしたときだった。その会話がパッと耳に飛び込んできて、思わず足を止めてしまった。

「お前だって女には困らないだろ?」
「それは、まぁ……」

否定しないアルベールに、ガンと鈍器で頭を殴られたような感覚がした。

アルベールは目に傷があるもののそれ以外は整った綺麗な顔立ちをしているし、海賊とは思えないほど物腰が上品で丁寧だ。街に出るときは特に。そんなアルベールが女性に好かれるのは容易に想像出来た。――けれどもそのことに私が今まで思い当たらなかったのは、アルベールが他の海賊たちと違って酒場などで女の人に声を掛けているのを一度も見たことがなかったからだ。

しかしそれは単に私が一緒にいたからに過ぎなかったのかもしれない。

「ん? 、そんなところでどうした」

先に私に気付いたティエラの言葉に、振り返ったアルベールが少しだけその右目を丸くさせる。アルベールがそんな風に表情を崩すのも珍しい。

「また女の人のところ?」

ティエラと、今日はアルベールも順番に非難の目で見る。ティエラは私のその視線をいつものように受け流し、アルベールも今度は特別表情を変えなかった。一緒にするなと言われると思っていたのに。

「お子様はアンリと一緒にお留守番してな」

私だってクリスと同じ年なのに私ばかり子ども扱いする。私より三つも下の男の子と同じ扱いだなんて納得がいかない。自分もまだ若いくせにティエラとアルベールは中でも特別私を子ども扱いするのだ。

「ふん! 勝手に行ってくれば!」

ぷいとそっぽを向きながら言えば、その態度がまた子どもだとティエラに笑われた。



買い物の荷物持ちの当てが外れたこともあり、もうすっかり外に出る気力もなくなってしまった。残っている船員も仕事があり忙しそうにしているし、アンリとジョバンニも出掛けてしまったらしく相手をしてくれる人物もいなかった。

――仕方がない。以前アルベールに読むよう言われていた航海術の本でも読んで過ごそう。

アルベールはいないが、勝手に抜き取っても文句は言うまい。そもそもこんなことになったのは元はと言えばアルベールのせいなのだ。

またざわざわと騒ぎ出す胸を押さえてアルベールの部屋へ向かう。外では濃いオレンジ色がゆらゆらと揺れている。もうすぐ夜がやってくる。アルベールの部屋の扉を押すと、ギッと軋んだ音がやけに大きく聞こえた。

「ノックもせずに黙ってドアを開けるなんて感心しませんね」
「アルベール、いたの……」

誰もいないと思っていたのに、開けた扉の先には椅子に座って顔だけをこちらへ向けたアルベールの姿があった。彼もまた本を読んでいたのだろう、パタリと彼の手元の本が閉じる音がした。

「何か用ですか?」
「この間アルベールが読めって言っていた本を借りようと思って」
「ああ、これですね」

アルベールが立ち上がって木箱から一冊の本を取り出す。すっと差し出された表紙のタイトルは、確かに以前言われたもののようだった。

「まだ何か」

目当ての本を受け取ってもまるで床に根が張ったようになかなか部屋を出て行こうとしない私にアルベールが怪訝そうな声で尋ねる。用は済んだのだから早く自分の部屋に戻ればいい。そう分かっているのにアルベールの姿を見るとまた胸のあたりがざわと嫌な感じに騒いだ。

「……どうして街に行かなかったの」

あのあとティエラと一緒に出掛けていったのだと思った。今だって船に残っているクルーは少ない。

「しつこいですね」
「久しぶりの陸で、他の皆はほとんど街へ出ているのに?」

アルベールが右目をすぃと逸らして横を向く。彼が右を向いてしまうと眼帯のせいで私からは彼の表情がほとんど見えなくなってしまう。

「皆、女の人と遊んでるんでしょう? どうしてアルベールは行かないの?」

いつもはよく私と一緒に港町で買い物をして、ほんの少しだけ辺りを散歩して、そして一緒に船に戻ってくる。けれどもそれは私に合わせているだけで、本当はアルベールも皆と同じようにもっと酒場に行くなり何なりして夜通し過ごしたいのかもしれない。私は気付かないままに、アルベールに私のお守りをさせてしまっていたのかもしれない。ずっと迷惑だったのかも。本当は私じゃない別の誰かと過ごしたかったのかも。――そう思うと心臓のあたりが刺すように痛んだ。

「ねえ」

航海士見習いである私にアルベールは色んなことを教えてくれるけれども、多分きっと本来はここまで私の面倒をみる義理は彼にはないはずなのだ。

「アルベール」

もう一度言葉を重ねるように名前を呼ぶと、彼の右目が一瞬こちらを捉えて、彼がふと小さく短い息を吐く音が聞こえた。

「――心に決めた人がいるからですよ」

彼の言葉を正しく理解するまで、少しの時間が掛かった。

「誰?!」

その言葉が脳みそに届くなり、思わず大きな声で前のめりになって詰め寄ると、アルベールは眉を顰めて片耳を塞いだ。

「アルベールからそんな話聞いたことない! 誰? どこで出会った人?!」
「間違えました。こうしてきみが寂しがってうるさいからです」

面倒くさそうに溜め息を吐く。うるさいだなんて心外だ。あのアルベールからこんな話が出たら誰だってもっと詳しく聞きたがるに決まっている。それに海賊は男所帯だ。恋やロマンスの話題はいつも不足していて、この手の話には飢えているのだ。あまりの衝撃にそれまで考えていたことはすべて頭の中から飛んでいってしまった。

「この話はおしまいです」

けれどもアルベールはこれ以上この話を続ける気は一切ないようで、ぴしゃりと言い放つ。

「お子様はもう寝る時間ですよ」
「好きな人の話くらい聞いたっていいじゃない。ジャンなんか五分に一回はこの間の港で出会った彼女の話をしてるわよ」

適当なことを言って追い払おうとするアルベールに、なおも身を乗り出して続きを促したのだけれど、アルベールは明らかに不機嫌そうに眉間の皺を深くする。――きっとその女性の前では彼はこんな表情はしないに違いない。

そこまで考えた瞬間、アルベールの右手が私の頬に触れ、左手は腰に回されてぐっと引き寄せられた。弾みで膝が彼の足に当たる。

「……本当に分かりませんか?」

手から滑り落ちた本がごとりと音を立てる。

一度瞬きをすると、アルベールの整った顔がひどく近くにある。それだけで息が止まるほど驚いたのに、さらに吐息が掛かるかと思うほど彼の顔が近付いてきて、思わずぎゅっと目をつぶる。訳が分からなくて、彼の問いの答えを探すことも彼の名前を呼ぶことさえも出来ずに身を固くすると、それとは反対に背中に回っていた彼の腕の力がゆるんだ。――ちゅっという小さな音とともに何かが鼻先に触れる。

「な、なに……?」
「おやすみのキスです」

ゆっくり恐る恐る目を開けると、アルベールがいつもと変わらない表情のまますっと目を細める。それに目を奪われていると、今度は前髪を掻き分けて額にキスを落とされる。

「そんなの、いつもはしないくせに」

痛いほど激しく鳴る心臓を遠ざけるようにグイと彼の体を押し返して、また子ども扱いだと恨みを込めた声で言えば、意外にもすんなりと離される。アルベールは背を向けて部屋の奥の机に戻ると、もう出ていけと言うようにひらひらと手を振った。

「アルベール」

顔を見たいときに限って彼はそれを見せてくれない。それでも私が名前を呼ぶと迷うように頭を少しだけ傾ける。もう少しで彼の右目が見える。

床に落ちたままだった本がコツリとつま先に当たった。

2018.05.20