「申渡くん!」
綾薙の廊下で彼の名前を呼ぶときは何となくいつもより緊張する。校舎の大きく取られた窓からまだ明るい光が差し込んでいるせいかもしれないし、他の生徒がいたらどうしようという気持ちがあるからかもしれない。彼が振り向いてくれるかどうか不安に思っているからかもしれないし、いつもより自分の声が響いているような気がして、それが申渡くんの耳にはどんな風に届いているかひどく気にしているせいかもしれなかった。
私の声に彼が足を止める。振り返る彼の横顔は視界の端に私の姿を捉えて「おや」と驚きの言葉を口にしながらも、表情はいつもと変わらない。
「おや、今日はいつもより少しだけ早かったのですね」
「今日は特別に授業が早く終わる日で。毎回皆を待たせてるから」
「いつも言っていることですが、こちらが呼びつけているのだから時間は気にしなくて良いんですよ」
どうしたって間に合わないのは私も、チーム柊の皆も分かっていることで、どうしようもないことなのに一分一秒でも早く来たいと思ってしまうのは皆のためだけではなく、きっと利己的な理由も混じっている。
「今日も走って来たでしょう」
さすがによその学校だし、校舎に入ってからは走っていないのに、どうして申渡くんには分かってしまうのだろう。入口からここまでもそこそこ距離があって、ここまで歩いてくる間にもうすっかり息も整ったと思っていたのに。
「待って、もしかして汗くさかったり……」
「いえ、そんなことは――」
そう言いながら申渡くんが呼吸する気配を感じて、慌ててもう二歩ほど後ずさる。彼もわざと息を吸おうとしたわけではないだろうけれど、申渡くんはあまり表情に出ないから信用ならない。本当だとしてもそんなことは絶対に口にしないだろうし。
「髪が少し乱れていたので」
申渡くんが少しあごを引いてじっとこちらを見る。その視線に慌てて手で髪を直した。校門をくぐる前にも一度直したはずだったのに恥ずかしい。前髪に触れると少しだけ額に張りついていた。
「でも、きみが急いで会いに来てくれたことは嬉しく思います」
彼の伏せた視線からはその瞳がどんな色をしているのかは分からなかったけれど、口元はその両の端がゆるく持ち上がっているように見えた。見間違えかと思って慌てて二度瞬きを繰り返すと、すでに申渡くんは視線を上げ、いつものように凛々しい顔でまっすぐこちらを見ていた。
「では皆の元へ行きましょうか――さん」
自分が申渡くんの名前を呼ぶときよりも、彼から私の名前が呼ばれるときの方が、この心臓はひどくドキドキとうるさくなる。うるさくて、落ち着かないのに、前を向いてしまった彼の背中に早くもう一度呼んではくれないかと期待してばかりいるのだ。
2018.05.06