「そろそろ起きてください」

やわらかなその声で目が覚めた。栄吾がそうやって私を起こすときは大抵たっぷり寝かせてもらったあとで、ふわふわと心地良く目が覚める。けれど、これはきっと夢に違いないと思ったのに瞼を開けると本当に彼の姿があった。

何度か瞬きをしてみたけれど彼が幻のように消えてしまうことはなかった。

「……ふほーしんにゅー」
「誰が不法侵入ですか」

間違いなくこのベッドは私のものだし、栄吾の後ろに見える家具も私の部屋に違いなかった。しかし昨夜は栄吾を泊めた記憶もなければ、栄吾の家に泊まった記憶もない。これだけは寝惚けた脳みそでもはっきりと分かる。

「きみが私に合鍵をくれたんでしょう?」

大真面目な顔でそんなことを言う。

合鍵は先日勢いで渡したものだ。わざわざ毎回酒に酔った私を家に送り届けてもらう度に鍵はどこかと聞かれるのが煩わしいという理由を付けて。それを渡すときに必要だった勇気を思い出したのと、それが今は彼の手の中にあるのだという現実がたまらなくなってじたばたと枕に顔を埋めた。

「昨日いつ来てもいいと言ったじゃありませんか。それにきちんと来る前にも連絡は入れましたよ」

もぞもぞと枕元に置いたスマホを探って布団の中で確認すると、確かに通知が来ていた。『今から行きます』という連絡のあと、十五分後に『起きていますか?』のメッセージまでしっかりと。いつもこの時間帯ならば通知で目が覚めるのに、今朝は眠りが深かったらしい。

「今日の講義は?」
「午後から」

私の答えに栄吾がふと壁の方を見る。そちらの壁に掛けてある時計を確認したのだろう。「まだ時間はありますね」と呟いた。布団から顔と手を出すとひんやりと冷たい空気が入り込む。リモコンでピッと暖房を入れたけれど部屋が十分にあたたまるまではもう少し掛かるだろう。栄吾は寒くないのかと心配になったがコートを脱いでいても平気そうな顔をしていた。

「こんな朝早くに来るなんて聞いてない」
「もう十時ですが……。昨夜は夜更かししていたんですか?」
「お笑いのDVD朝まで見てた。耐久六時間」
「随分と見ましたね。おすすめはありましたか?」
「ん〜〜」

最後の方は眠くてあまりよく覚えていない。長い時間見ていられたのだからそこそこ面白かったには違いないが、寝て起きたら忘れてしまった。起きて栄吾が私の部屋にいた衝撃も記憶の欠落に影響している。それに加えて、栄吾の手のひらが私の頭を撫でるものだからそれが心地良くて、ついまたうとうとして物が考えられなくなってしまう。

寝かしつけるように一定のリズムで頭を撫でておきながら「二度寝はいけませんよ」なんて言うものだから栄吾の行動は矛盾している。

顔を半分埋めていた布団が捲られる。いつの間にかカーテンの開けられた窓から差し込む光が眩しくて目がくらんだ。

「ほら」

そう言う彼の声がいつもと変わらないトーンだったから油断したのだ。

栄吾が私の顔の横に手をついて、彼の左手が頬に触れた。覆い被さるように身を屈めたかと思うと、彼の整った顔が近付いてくる。それまでまっすぐにこちらを見ていた彼の目が伏せられて、そのまま唇が重ねられる。

ワンテンポ遅れて私がぎゅうと目を瞑ると、ふっと彼が小さく笑ったのが分かった。

「……目は覚めましたか?」

唇を離した彼がじっとこちらを見つめたあとにその目を細める。窓から差し込む冬のやわらかい光に栄吾の髪が透けていた。あたたかい陽の光がきらきらと綺麗で、まだ夢の中にいるみたいだった。はらりと彼の前髪の一束が落ちて私の顔に掛かる。

彼の手がまた頬に触れた感覚で、ハッと我に返った。勢いよく布団を掴んで頭の上まで引き上げると栄吾の手が離れた。

「おや、これでも起きませんか」

布団を被ったせいで余計に熱い。けれどもきっとひどく間抜けな表情をしているであろう今の顔を、彼の前に晒し続けるよりはマシだった。

「もう絶対に起きない!」
「困りましたね」

栄吾の手が布団をちょっと引っ張って引き下げようとする。それに対抗して顔の上まで上げた布団を押さえていたのに、ほんの少しだけ見えていたのだろう。今度はちゅっと音を立てて額にキスを落とされた。

「えーご!」

抗議のために思わず布団から顔だけ出して睨むと、今度は鼻先に、頬に口付けが落ちてくる。栄吾がそれをやると本物の王子様のように様になる。栄吾の気持ちをこちらに繋ぎ止めたいと思っているくせに、いざ現実にそれを向けられると恥ずかしくて仕方がない。

「では、どうしたら起きてくれるのですか」
「どうしたって起きられない! ……寝癖だってついてるし」
「今さら。知っていますよ」

そう言って栄吾が私の頭の左側を撫でる。

「寝起きはここに寝癖がつくんです」

手で梳かれると彼の言う通りその部分の髪が変な方向に向いている感覚がする。栄吾には私のことなんて全部おみとおしで、何もかも敵わない気がする。

やさしく触れる手に今度は私から目を閉じると、彼がまた小さく笑う音がした。

2017.12.06