「たまたま出会った女優の方に教えていただいたのです。浅野さんというのですが――」

 *

『彼女は素晴らしい方です』

その人の名前を聞いてしまってから私の胸の中はずっとざわざわとうるさかった。

『やはり同じ舞台に立つ人間の方が話も分かりますし』

今までも彼が私に話さなかっただけで彼が行く先々でもっと沢山の人と出会っているのだろうと分かっていた。私の知っている彼の交友関係などほんの一部分だと。それでも具体的な名前を伴って話されると、簡単に『ああ、やはり』などとは思えなかった。

夢の中の彼が言う。

『彼女は私に沢山のことを教えてくれるんです』

では、私は――?

いつも夢はそこで覚める。

 *

カランとグラスの中の氷が音を立てた。

「――来月の予定は空いていますか?」

彼が連れてきてくれるカフェでは大体ケーキと一緒にアイスティーを頼む。申渡くんが選ぶのはいつもケーキがおいしい居心地の良いお店だった。彼の向かいに座ってお喋りしていると、いつの間にか口の中がカラカラに乾いてすぐにアイスティーがなくなってしまうのだけれど、今日は普段よりも随分と減りが少なかった。

「今度知人が出る舞台を観に行くのですが、もし都合が合えば一緒に行きませんか? あらすじもきみが好きそうな感じだったのでどうかと思いまして」
「……それって“浅野さん”が出るやつ?」

その名前を口に出したとき、じわりとお腹の底から何かが滲み出るような感覚がした。聞かなければいい、分かっていたのについ言葉にしてしまった。

「ええ、そうです。よく分かりましたね」

そう言って申渡くんが鞄の中のファイルから一枚のチラシを取り出す。ちらりと公演期間の日付だけ確認してそれからすぐに目を逸らした。

彼の言う“浅野さん”に会ったことはない。直接見たことはなくとも彼女は女優だと言うのだからきっと綺麗な人に違いない。申渡くんが慕うくらいだから演技の実力も、演劇の知識もあって、きっとそれ以外の教養も高いのだろう。申渡くんからほんの少し聞いた話だけでもそれが窺えた。申渡くんに誘われてたまに観劇に行くくらいで、演劇の知識も歌の知識もミュージカルの知識も、全部ないない尽くしの私とは雲泥の差だ。

「その人と随分仲が良いんだね」
「仲が良い、と表現して良いのかどうかは分かりませんが。そうですね、彼女にはとても良くしてもらっています」

彼の言葉を聞きながらケーキを口に入れる。先ほどまでは甘かったはずのチョコレートが急にひどく苦く感じた。本当はケーキなんか食べてる場合じゃないのかもしれない。カロリーを摂っている場合ではなく、ダイエットしたり少しでも綺麗になる努力をした方がいいのではないか。――もっとも、それで女優さんのような美人になれるわけがないことは自分が一番良く分かっていた。

「えっと、その日はどうだったかな……。何か用事があった気もするから確認しておくね」
「そうですか。私の方は他の日でも大丈夫なので都合の良い日が分かったら教えてください」

そう言う申渡くんの表情は嬉しそうで、それほどその舞台が楽しみなのだろうかと思った。チョコレートケーキはもうあと少ししか残っていなくて、その最後のひとかけらをフォークで掬って口の中へ押し込む。申渡くんがおすすめしてくれたケーキはさっきまであんなにおいしかったのに、ついに味がしなくなってしまった。

「そういえば、先日可愛らしい雑貨屋を見つけたんです。いつも話を聞いてもらっているお礼に何か贈りたいと思ったのですが悩んでしまって……。もしまだ時間があれば一緒に選んでもらえませんか? ここから近い場所にあるので」

本当はそちらが今日の要件だったようにも思えた。やはり申渡くんは“浅野さん”には色んなことを相談しているのだ。私の知らないところでは、こうして向かい合わせで話をしているのかもしれない。私なんかは申渡くんと話していても彼から新しい知識だとか色んなものを教えてもらっているのに、逆に私から彼に与えられるものなんてまったくこれっぽっちもないのだ。

「きみの趣味にも合うと思います」

私の趣味がどうこうはあまり関係ないはずなのに。彼が言葉を重ねれば重ねるほど、それほどまで彼女のために良いものを選びたいのかと考えてしまって、胸の奥がざわつく。

彼の善意からの言葉を、そんな風に曲解して受け取ってしまう自分にも嫌気が差す。

「――では、そうと決まれば早速行きましょう」

きっと彼に良い顔をしたい私が無意識のうちに『いいよ』と返事をしたのだろう。申渡くんがほっとしたような嬉しそうな表情で立ち上がる。彼がすっと伝票を持って会計に向かってしまったものだから、私はそれを追いかけるために席を立つしかなかった。

申渡くんが私の目の前に置いたチラシは、結局中身をきちんと読むことのないまま四つ折りにされて私の鞄の中に入った。

 *

喫茶店を出ると、まだ午後の秋晴れが眩しかった。昨夜降った雨で道の端に出来た小さな水溜りがきらきらと光を反射している。

「ここです」という言葉とともに彼が足を止めたのは、輸入品やハンドメイドの雑貨を売っているらしい小さなお店の前だった。彼の言葉通り喫茶店から数分の、本当に“すぐ近く”だった。

店内に入ると「いらっしゃいませ」と言う店員の声に申渡くんが「こんにちは」と返す。店員さんは先日店に来た彼の顔を覚えていたようで「ゆっくり見ていってくださいね」と微笑んだ。

「どうでしょう?」

思わず棚の商品たちに魅入ってしまった。ヘアアクセが並ぶ前でそのうちのひとつを手に取ると、申渡くんが「ああ、そちらも素敵ですね」と後ろから覗き込む。

「私はこちらかこちらが良いと思うのですが――」

申渡くんが手にしたのはふたつのピンだった。それぞれ少しずつデザインと色が違っている。申渡くんが趣味に合うだろうと言った通り、どちらも私好みで反射的にぶわりとテンションが上がる。

しかし、次の瞬間には彼が何のため私に意見を求めているかを思い出して、急激に気持ちが降下した。

「どちらが良いと思いますか?」
「……もっと大人っぽいデザインの方がいいんじゃないかな?」
「そうですか? 私はこちらも可愛らしくてイメージに合っていると思いますが」

そう言って申渡くんが私の髪にそのピンを当てて見る。その彼の表情を知りたくなくて、私はとっさに目を逸らした。私は彼女に会ったことがないからイメージとか言われたって分からない。年上なのだから勝手に大人っぽい女性だと思っていたけれど、可愛らしい人なのか。

――それとも申渡くんの目にそう映っているのか。

「私に聞かれても分かんないよ。役に立たなくてごめんね」

今度こそふつりと腹の底で煮え立つような感情が声に漏れてしまっていたかもしれない。せっかく申渡くんの役に立てるチャンスだったのに。せっかく彼が私を頼りにしてくれたのだからちゃんと応えなきゃと思うのに、隠しきることの出来ない自分が嫌になる。

「どうかしましたか?」

さすがに申渡くんも気が付いたようで心配そうな声が落ちてくる。彼がこちらを覗き込む気配がしたので、それから背けるように私はさらに深く俯いた。

「何でもないよ。やっぱり申渡くんが選んだのがいいと思う」
「しかし」
「こういうのって気持ちが一番大事だと思うし……」
「それも、そうですね」

特別な気持ちを込められたら困るくせに。申渡くんは私の言葉に納得したようで「ふむ」と小さく唸ったあと、片方がことりと棚に戻された。

「すみません、少し待っていてください」

そう言うと申渡くんはレジへ向かって行った。彼の手にはもう一方のヘアピンがあったからきっとそれを買っているのだろう。結局私なんか必要なかったじゃないかと思うと、アドバイスをする気もなかったくせにジリジリと胸の辺りが焦げるような感覚がした。

「こちらは彼女にプレゼントですか?」
「ええと……。はい」

店員さんの問い掛けに少しの躊躇いのあと申渡くんが小さな声で、しかしはっきりと答える。彼の表情はこちらに背を向けているせいで見えない。見えなくていいと思った。

今度は向こうの棚に興味があるふりをして、店内をふらふらと見ていると「さん」と彼が私の名前を呼ぶ。いつもは名前を呼ばれればすぐに振り返るのに、今日はそうしなかった。「もう少し見ていきますか?」という彼の言葉に「もういい」と答えた声は冷たくなかっただろうか。もしかしたら震えていたかもしれない。

「お待たせしました。出ましょう」

そう言って申渡くんがドアを開けてくれる。私はそれに上手く答えることも出来ずに、カランカランとベルの音だけが鳴る。

店内にも穏やかな光が差し込んで決して暗くなかったはずなのに、外に出ると溢れる光に目がくらむような感覚がした。

「あの、もしまだ時間があればもう少しだけ――」
「ごめん、今日はこのあと用事があって」
「そうですか……。では駅までお送りします」

律儀な彼はいつも私を送ってくれる。今は正直駅までの道のりも気まずいのだけれど、これ以上断るのも変だろう。小さく頷いて彼の横に並ぶと、彼がゆっくりと歩き出す。またきらりと小さな光の反射が視界の端に映る。

こういう帰り道に申渡くんと何を話していたか、もうすっかり分からなくなってしまった。沢山お話をして、それでも喋り足りないうちに駅だとか家だとか目的地に着いてしまって毎回少しだけ残念な気持ちになるのが常だったのに。

ちゃんと話さなきゃ、申渡くんが聞きたいと思うような話題を選ばなきゃと思えば思うほど口から言葉が出る前に舌先で溶けて消えてしまう。

「ずっと暗い顔をしていますね。……私が何か怒らせてしまいましたか?」

顔に出さないように、声から感情が出ないようにと気を付けていても結局は隠しきれない。蓋をしようとすればするほど、じわりじわりと重たく暗い気持ちが滲み出てくるようだった。

もしも、この感情に名前を付けるとしたら“嫉妬”になるのだろうか。それとも、ほとんど“失恋”だと言ってしまった方が近いのだろうか。

ずきりと鈍い切っ先が突き刺さる。それは心の一番やわらかいところに押し当てられてじくじくと傷口を広げていくようだった。

「やはり先ほどの私の発言が……。きみを不快にさせてしまったのなら謝ります」

申渡くんの視線がこちらへ向いているのを感じる。申渡くんの前でこんな子どもっぽい姿を見せたくはなかった。今は、余計に。

『違うよ』とすぐに否定しなくてはと思うのだけれど、原因の半分は彼にあるのは事実だったので咄嗟に何と答えたら分からなかった。申渡くんに悪いところはひとつもないと言えばその通りだし、何もかも全部全部申渡くんがいけないのだと心の中を全てぶちまけてしまいたい気もした。

「機嫌が悪く見えたのならごめんね。申渡くんの、せいじゃないから……」

ぴちゃりと、小さな水溜りに自分の靴が入っていた。お気に入りの靴だったのに爪先が少し汚れてしまっている。

「私が勝手に……浅野さんに……」
「浅野さん? 浅野さんの名前がどうして出て……」

珍しく彼の戸惑った声がする。私がこんな風に浅野さんのことを意識しているなんて、申渡くんにとっては思ってもみなかったことだろう。私が『ああ、しまった』と思う前に申渡くんは記憶を辿って思案するように言葉を区切った。

きっと彼ならば私の言葉の持つ意味に、私の持つ感情に、気が付いてしまうだろう。こんな形にするつもりじゃなかったのにと思ってももう遅い。

「……もしかして何か勘違いをしていませんか?」

そう言って申渡くんが私の正面に立つ。ひとつひとつ言葉を選ぶ彼の声がひどくやわらかく聞こえた。

「私が先ほど店で選んでいたのは浅野さんへのプレゼントではありませんよ」
「え、でも……」

ずっと下がったままだった視線を思わず戻すと、申渡くんが「これを」と包みを渡しに差し出す。始めは何なのか分からなかったのだけど、一瞬遅れて先ほどの店の包みなのだと気が付いた。

「先日これを見かけたとき、きみに似合うと思って」

そう言って彼が丁寧に包みを開けて中からヘアピンを取り出す。彼の手のひらに乗せられたそれは、店内で見たときよりも太陽のひかりに当たってずっと綺麗に見えた。

「理由がなければ受け取ってもらえないのではないかと思ったので。いつも話を聞いてもらっているお礼だなんて言いましたが、本当はただきみに渡したかっただけなんです」

申渡くんの言葉がすぐには頭に入って来なくて、ぱちぱちと瞬きを繰り返してしまった。「ついでに一緒に選びに行けば出掛ける口実も出来ると思って」と彼が付け足す。

彼の靴がほんのかすかな音とともに水溜りに波を立てる。水面に映る景色がゆらゆらと揺れていた。

「きみが好きだという方にしようと思っていたのですが、今日きみの髪に合わせてみたらこちらの方が良いように思えたので結局勝手に決めてしまいました」

そう言って苦笑しながら彼の指先が私の髪に触れる。さらりと一房掬ったあと、私の前髪を少し横に流して手の中にあったピンで留める。彼の手のひらに促されて顔を上げると、申渡くんのふわりと目を細める表情がよく見えた。

「ほら、やっぱりよく似合う」


2017.11.28