栄吾が琉唯のことを苗字で呼び始めた理由は何となく察しが付いた。

けれども、栄吾が私のことを“さん”と呼び始めたのはまったく意味が分からなかったのだ。

「勘違いされては困りますから……」
「何が困るの? 誰が? 栄吾?」
「いえ、私ではなく、主にきみが」

そう言って眉を下げて悲しそうに笑う栄吾の顔は瞼の裏に張り付いて簡単には忘れられなかった。

そんな風に笑うなんて、やっぱり困っているのは栄吾の方なんじゃないか。何かあったのなら私だって力になるのに。さらに理由を問い詰めようと口を開いたところで栄吾がふいと顔ごと視線を逸らす。

「もうこの話はいいでしょう」

そう言って彼はらしくなく無理矢理話を終わらせた。それまで幼馴染として自分は栄吾の近くにいると思っていたのに、そのとき初めて突き離されたように思えた。


もしかしてこのとき栄吾には好きな女の子がいたのかもしれないと、思い至ったのはもうしばらくあとになってからだった。



「――も、それで問題ありませんよね?」

その栄吾の呼び掛けに私の心臓は口から飛び出てしまいそうなくらい跳ね上がった。急に話を振られたからではない。栄吾が突然私を名前で呼んだからだった。

中等部一年のときお世話になった先生が定年退職されるというので当時のクラスメイトでお祝いの品を贈ることになった。贈り物の決定と買い物のために都合の付く有志で集まったのだけれど、中一のときのクラスには栄吾もいたのを失念していた。ついでに言うと綾薙の高等部へ進学しミュージカル学科に入った彼はきっと忙しく、この集まりには来ないと思っていた。

問いかけられた内容については問題はなかったが、それ以外の部分で大いに問題がある。

「申渡、ちょっと来て」

丁度話もまとまったタイミングだったので、そう言って栄吾を連れ出そうとしたけれど彼の方はまるで当然のことをしただけで呼び出される理由がさっぱり分からないとでも言いたげな顔をしているのだ。その栄吾の腕を掴んで引っ張ると、彼はそれに逆らうことはせずすんなりついてきた。それにも何だか気に食わなくて、もっと雑に強く引いてみたけれども彼にとってはそれすらもなんてことはないようでバランスを崩すこともなくついてきたのがまた無性に腹が立った。

他の人に私たちの声の聞こえない場所、急に人のやってこないような場所まで彼を連れてきて、もう一度周りに人気のないことを確認してから彼に向き直る。やはり栄吾はいつもと変わらない表情をしていた。

「どうかしましたか?」

そう言う言葉も白々しく感じる。絶対に私が言いたいことが分かってるくせに。

「名前、どうしてまた下の名前で呼ぶの?」

目の前に立つ栄吾は昔は私と背がほとんど変わらなかったのに、いつの間にか栄吾の方が私よりも大きくなってしまった。私が上を向かなければ栄吾と視線が合わない。こんなに身長差があるだなんて、長いこと栄吾の正面にも隣にも立つことがなかったから知らなかった。

「申渡、私のこと“さん”ってこの間まで呼んでたでしょう」

私が彼を“申渡”と呼ぶのも意地だ。栄吾が私のことを苗字で呼ぶから私も栄吾のことは苗字で呼ぶ。琉唯は変わらずにずっと栄吾と呼び続けているようだったけれど、私は琉唯ほど出来た人間ではないのだ。栄吾の考えていることなんて分からないし、栄吾の気持ちを汲むことも出来ない。今でもまだ、あのときの彼の言葉を忘れてはいない。小さな棘のように心のやわらかい部分に刺さったそれはなかなか抜けなかった。

「“勘違いされたら困る”んじゃなかったの?」
「そう、ですね。そう思っていた時期もあったのですが」

昔よくそうしていたように栄吾の手が私の髪を撫でる。

「でも」

その手がするりと下りてきて、耳を辿って頬に添えられる。ぺたりと頬に触れる彼の手が熱い。小さい頃はよく私をなだめていた手だったのに、今は触れられるとひどく落ち着かないことに気が付いた。

「やはりきみを誰にも渡したくないんです」

そう言って彼が私の瞳を覗き込む。こんな熱っぽい栄吾の瞳は知らない。

何で今さら、急に栄吾はこんなことを言い出すのだろう。自分の気持ちに気が付いたときにはもう遅かったのだと思っていたのに。

「……なに、それ」
「言葉通りの意味です」
「勝手だよ」

彼の瞳を見つめていると余計なことまで言ってしまいそうで、視線を逸らそうとしたのだけれど頬に触れる彼の手がそれを許してくれない。実際は軽く添えられているだけなのだから顔を背けようと思えば簡単に出来たはずだった。

まるで金縛にあったかのように動けないでいると、栄吾が触れている手の親指をするすると動かして私の頬を撫でる。彼の手のひらの熱が私の思考回路も溶かしていくようだった。

「勝手なことばかり言わないでよ……」

――私のものになって、栄吾。

今さらそんな言葉が口をついて出そうになってしまうから。

2017.10.18