栄吾くんから一緒に舞台を観に行かないかと誘われて、お気に入りのワンピースに身を包んだ私が待ち合わせ場所の駅に到着したのは予定よりも十分早い時間だった。

改札前の人通りの邪魔にならない場所に立って鞄からスマホを取り出したところで「」と栄吾くんが私の名前を呼ぶ声が聞こえた。

顔を上げると向こうから栄吾くんが軽く手を上げてこちらへやってくるところだった。無事に会えたことに安心して「栄吾くん」と彼の名前を零すと彼が表情をゆるめる。その後ろには辰己くんと、私の知らない男の子が何人か連れ立って歩いていて、こちらの姿を認めると何故だか一斉に目を丸くさせた。きっと栄吾くんと辰己くんの高校の友達なのだろうと思ってぺこりと頭を下げる。

「待たせてしまいましたね」
「ううん、ちょうど今着いて連絡しようと思ってたとこ」

文字を打ちかけていたスマホを鞄の中にしまって顔を上げると、いくつもの視線がこっちに注がれていることに気が付いた。

「初めまして。です」

何と自己紹介したものかと迷って名前だけ名乗る。栄吾くんと辰己くんとは小学校まで一緒で、などと私から長々と説明するのも違う気がして続ける言葉を持たないでいると、辰己くんの「ふふ」と笑う声が聞こえた。

は栄吾の婚約者なんだよ。ね?」

にっこりといつもの笑顔で辰己くんがとんでもないことを言う。

「昔からは栄吾と仲が良くて、将来の約束もしたし、両家公認なんだ」
「た、辰己くん、誤解を招くような言い方やめてよ……!」

何を言い出すのかと辰己くんの腕を掴んで止めようとしたのだけれど、彼は何か間違ったことでも言ったかなとでも言いたげな目でこちらを見ただけだった。

「本当小さい頃の話だし、私の両親や親戚が面白がって勝手に言ってるだけだから。そもそもうちは婚約者がいるような立派な家柄でもないし」

将来の約束なんて全くそんな大層なものではなく、その年頃の女の子がよくやるように、幼い私が栄吾くんに『お嫁さんにして!』と言ったというだけの話で。さらにはテレビか何かで知ったばかりの婚約指輪をねだって栄吾くんに右手の薬指に結んでもらったリボンを私があちこちに自慢して回ったものだから、大人たちがそのときのことを面白がって二人は将来結婚するのよねなんて言って未だに揶揄って言うのだ。家が近いから栄吾くんのご両親も私をかわいがってくれているけれども、本当にそれだけのことで、婚約者だなんてそんな立場ではなく。――私の気持ちが幼い頃からずっと変わっていなかったとしても、婚約者どころか彼女ですらない私はただのオトモダチに過ぎないのだ。

「ねえ、栄吾くん?」

今さらそんな話をここで持ち出されるとは思っていなかった。さすがにお互い年頃になった今となってはそんな風に揶揄われることもなくなってきたというのに。突然のことにびっくりして熱くなった頬を冷ますようにパタパタと手で扇ぎながら、栄吾くんを振り返ると彼がひどく真面目な表情でこちらを見つめていたものだから思わずドキリと心臓が鳴った。しかしすぐに彼の視線は伏せられて、いつもの涼しげな表情に戻る。

「ええ、その通りです」

自分で言って同意を求めたくせに、彼の言葉がぐさりと胸に刺さった。これでさらに揶揄われたらどう答えたらいいか困ってしまうくせに。ただのトモダチをこんな風に紹介されてはきっと栄吾くんに迷惑を掛けてしまう、それだけは避けたいと思って口から出た言葉だったのに。その結果行き着く先を全く考えていなかった私は、刺さったものを上手く抜けずにいた。

「そろそろ行かないと開演時間に間に合わなくなってしまいますので」

そう言って栄吾くんが先を促してくれたのを喜べば良かったのか悲しめば良かったのか。ちょっとだけ気まずくなってしまったこの場を後に出来るのは良かったけれど、今はまだ栄吾くんとふたりきりになるのはもうちょっとだけ待ってほしいとも思う。

「楽しんできて」と言う辰己くんの声が後ろから聞こえてくる。きっとこのままでは舞台の内容なんて一ミリも頭に入ってこないに違いない。いつもはスキップでもしだしそうな足取りで彼の隣に並ぶのだけれど、今ばかりは自分がどんな表情をしているのか分からなくて顔を見られないように一歩後ろを歩く。



栄吾くんの私の名前を呼ぶ声に心臓からじくじくと何かが漏れ出るような感覚がする。この次に続く言葉を聞くのが何だか怖いような気がして思わず耳を塞ぎたくなった。

は学校に好きな人がいたりするのですか?」

足を止めて振り返った栄吾くんのまっすぐな視線が私を射抜く。“好きな人”という言葉に反応して心臓がドキリと大きく鳴る。栄吾くんとはそういう話をしたことがなかったからどういう顔をしたら良いのか分からなくなる。

「クラスメイトや学校の先輩や後輩……いえ、それ以外でも誰か想いを寄せる人は?」

続けられる質問に目を瞬かせたのだけれど、彼は変わらず私から視線を外さなかった。“学校の”と言われると答えはノーだ。けれども好きな人がいるかと言われると答えに困ってしまう。まさか今目の前にいる人だと言うことも出来ない。私が「えっと……」と小さな意味のない言葉しか出せずにいると、彼が私の左手を掬い上げた。

「実を言うと、あのときの約束はまだ有効なのだと勝手に思っていました」

栄吾くんの指先が私の左手の薬指をなぞる。

「まだきみは私に想いを寄せてくれていると、そう思っていて」

ずっと栄吾くんが好きだった。あのとき結んでもらったリボンはまだ机の引き出しの中に大事にしまってあるし、さすがに小学校高学年あたりからは『好き』だとか口に出して言えなくなってしまったけれど、あの頃から私の心の向く先はただひとりだった。

「きみの言葉に『はい』と答えたあの日から、私の気持ちは変わっていません」

あのときも栄吾くんは私の小さな手を取って、丁寧に丁寧にリボンを結んでくれたのだ。自分からお願いしたこととはいえ、リボンを結ぶことで栄吾くんが私の気持ちに応えようとしてくれたのが本当に嬉しかったことを覚えている。

「もしまだきみの心が少しでも私に向いているのだとしたら、どうか私の恋人になって、もう一度約束させてくれませんか」

そう言ってこちらを見つめるひどく真剣な瞳は、私の記憶の中の彼と何ひとつ変わらなかった。

2017.09.13