すでに何度かお邪魔したことのある恋人の部屋にはもうすっかり慣れた。いつもの定位置に座ると申渡くんも当然のように私のお気に入りのクッションを手渡してくるものだからそれを抱えてつい寛いでしまう。申渡くんの部屋はいつ来ても居心地が良い。

「プリンを買ってきたのですが食べますか?」
「あっ、これ駅前の? 気になってたやつだ」
「ええ、先日そう言っていたので買ってみました」

彼が取り出してきたのはこの間私が帰る途中で看板を見つけておいしそうと何気なく言葉を零したものだった。ケーキ屋の前に置かれた店員手書きの看板にはそのプリンの売り文句と絵が描かれていてそれが何となく目に付いたのだ。帰り道の他愛のない話のひとつだったはずなのに申渡くんはこうして覚えててくれるものだから、それだけで私の胸はじわじわとあたたかいものでいっぱいになる。

「お茶を淹れてきます」

そう言って申渡くんは再びキッチンへ向かう。私はわくわくとした気持ちを抑えきれないまま、箱からプリンとプラスチックのスプーンを取り出して申渡くんを待つ。瓶に入れられたやさしい色のそれはきっと口に入れると甘くとろけるのだろう。そうして眺めているうちにふわりと紅茶の香りが運ばれてくる。

「ありがとう」

ティーカップがふたつテーブルに置かれて、申渡くんが隣に座ったらプリンを食べ始めようと横へ顔を向けて確認すると、身を屈めた彼の顔が思いの外近くにあったのでびっくりした。

申渡くん、と思わず名前を呼びかけた声は、彼の唇に飲み込まれてしまった。

重ねられたそれはしばらく押し付けられたあと一度離れて、しかしすぐにそれを惜しむようにもう一度もう一度とくっついた。突然のことに頭がついていかない。全く想像もしていなかったタイミングだったからすぐに息も出来なくなってしまって、彼の唇が離れた隙を狙って彼の胸を押し返した。

「ど、どうしたの?」
「理由がなくては駄目ですか?」

その声に怒りだったり不機嫌さだったりするものは感じられなかった。かといって特別上機嫌というわけでもなく。ただ、ひどく甘い響きがした。

私が目を瞬かせている間にも、彼は私が思わず前に出してしまった手を取ってその指先にちゅっちゅと口付ける。つい視線はそちらにばかり向いてしまって、ハッと我に返って慌てて視線を逸らす。

「そういうことじゃなくて……」

彼の取る手をこちらに引き戻せば、意外にもするりと解放された。自分の手なのにいけないものを見てしまったような気がしてそれを抱え込む。胸に手を当てると心臓がひどくうるさかった。

「その、急だったから……」

何がとまで言わなくても彼は察したようだった。申渡くんの言う通り、付き合っているのだからキスするのに理由はいらないのかもしれない。彼の部屋でふたりっきりなのだからいつそういう雰囲気になってもおかしくないとも思うのだけれど、申渡くんからこんな風に前触れなくキスされたことがなかったものだから驚いてしまったのだ。申渡くんはこういうときいつも特別やさしく触れてくる。

「それは、すみません」

謝る彼がどんな表情をしているのか確かめることが出来ない。本当に申し訳なく思っているかもしれないし、子どもっぽい私の発言に少しだけ笑っているようにも聞こえた。

段々自分の発言が恥ずかしくなってくる。決して嫌だとか、そういう訳ではなく突然のことに思わず止めてしまっただけなのだけれど恋人としてそうすべきではなかったのかもしれない。拒絶する意思なんてないこと、申渡くんならば分かってくれていそうなものだけれども、私のこれまでの言葉だけではそれがちゃんと伝わっているかどうか急に不安になる。

「あの……嫌じゃない、から」

私の言葉に彼が笑いを零したのが聞こえた。それを合図に頬に彼の手が添えられる。ゆっくりまた彼の顔が近付いてきて、それに合わせて目を閉じれば彼からの口付けが降ってくる。今度はきちんと分かった。

するりと、髪に彼の手が差し込まれる。くしゃりと頭を撫でられる感覚が心地良い。

「さわたりくん」

名前を呼んだのにそれを遮るように小さな音を立てて数回啄むようなキスが落とされる。申渡くんがせっかく買ってきてくれたプリンはまだ一口も食べていないし、せっかく淹れてくれた紅茶も冷めてしまうのに。テーブルの上に視線を向ければそれらがふたり分さびしそうに並んでいる。でもそれも段々遠い世界の出来事のようにぼんやりして、頭がくらくらするようだった。そのことを訴えるように思わず申渡くんのシャツを掴んだ。

「いけませんね」

その言葉とともに申渡くんの左手が彼に縋り付く私の手に重ねられる。彼のシャツを握っていた指が外され、右手を空中に縫い止められてしまう。至極近い距離で私を見つめる彼の瞳はひどく熱っぽく、それと同時にひどく甘い色をしていた。

2017.07.13