まだ、帰りたくないと思ってしまった。

申渡くんと出掛けるのはもう毎週のことのようになっているのに何だか今日は特別楽しかったような気がしてならなかった。多分先週もそう思ったような気もするし、きっと来週もそう感じるのだろう。ひどく胸の奥が満たされた心地で、足元は何だかふわふわとしていてとてもコンクリートの上を歩いているとは思えなかった。

彼が『夕飯も食べてから帰りませんか』と言うのに乗っかって、今日が終わるのを少しだけ延長したというのに、まだ足りない。申渡くんに恋している私は、もっとずっと一緒にいたいし、明日も明後日も毎日申渡くんに会いたい。

「それでね、数学の時間に居眠りしていた友達が――」

平日の間にあったことを聞かせてほしいと頼まれてクラスであった出来事を話しながら歩く。ちょっと前まで太陽が真上にあったような気がするのにいつの間にかオレンジ色まですっかり隠れてしまって、深い紺色の天井にはちかちかと小さな光が瞬くばかりだった。他愛のない話をしながらも私は少しずつ近付く終わりに意識が持ってかれていた。

さん」

名前を呼ばれてようやく気が付く。周りを見渡せば、もういつの間にかいつも帰りに別れる場所だった。意識は違うところに向きながらもぺらぺらと喋り続けていたので、申渡くんは私が話に夢中になりすぎていたせいで気付かなかったと思ってくれたようだった。

「着きましたよ」
「ありがとう。いつも送ってくれて」
「いえ、これくらいは」

そう言って申渡くんがふわりと目を細める。毎回『送ります』という申渡くんのやさしさと真面目さに甘えて、あとちょっとあとちょっとと先延ばしにしているはずなのにそれはいつもすぐにきてしまうのだ。

「じゃあ、またね」

はっきりと約束したわけではないけれど、多分また来週一緒に出掛けられるだろうと期待して別れの挨拶をする。『また』早く会いたい。私の心はそればかりだ。

しかし、いつもは私の言葉に申渡くんも挨拶をしてそれで一日が終わるのに今日はそうではなかった。

私の後ろに申渡くんの言葉が続くことはなくて、代わりに一歩分距離を詰められる。目を伏せる申渡くんをやさしい紺色が縁取っていた。

「今日は本当に楽しかったです」

そう言って申渡くんが私の右手を取る。ゆっくりとまるで壊れ物を触るかのようなやさしさで掬うと、両の手で包み込むように私の手を閉じ込めてしまった。申渡くんの手のあたたかさがじわじわと移ってきて、自分の指先が夜の空気に冷えていたことを知る。

「あなたも私と同じ気持ちだったら良いのですが」

まっすぐ申渡くんに見つめられると、じわりじわりと体温以外の何かも触れられた箇所から伝わってくるような心地がする。きっとそんなものは私の期待でしかないはずなのに。私をとらえる両手は決して強い力ではなくただ触れているだけなのに、手を引っ込めるどころかこのまま呼吸まで出来なくなってしまいそうだった。

不意にそれまで触れるだけだった彼の両手が控えめに私の手を握る。それに応えるように私も指先に小さく力を乗せた。ちかちかと小さな光が胸の奥で瞬く。

「私もだよ」

彼を見つめ返す私の指先からもこの想いが漏れてしまっていたらどうしよう。そう思うのに、頭の中で私はまったく正反対のことを願っているのだった。

2017.06.22