申渡くんとのデートは完璧だった。

もちろん完璧だったのは申渡くんのエスコートの方だ。

最初にお昼ご飯を食べるために入ったカフェは申渡くんが選んでくれたお店で、お洒落でかわいらしく、ご飯もとってもおいしかった。そのあとは街を散策し、私が気になると以前零したことのある映画を一緒に観た。上映前に申渡くんから手渡されたドリンクを私が落としそうになったこと以外は完璧だった。

前評判で聞いていた通り映画は素晴らしく、ぽろぽろ泣いてしまった。感動が覚めやらぬ私たちはゆっくり感想を言い合いながら夕ご飯を食べるためにお店に入ることにした。しかしそうして入った場所も今うちの学校の女子生徒の間で密かに話題になっているお店だったので、私はさらにテンションが上がってしまった。私が映画のあそこが良かったここが良かったと捲し立てると申渡くんは深く頷いて、主人公の行動の裏にはこういう背景があってと解釈を聞かせてくれるので今度は私が感心して深く頷く番だった。

そうして一日を過ごしたあといつもは申渡くんが私を送ってくれてデートは終わりになるのだけれど、今日は珍しく引き止められた。

「今日はもう一箇所、行きたい場所があるのです」

そう言われて連れてこられた場所は海に面した公園だった。

「わー! 港の夜景がきれい!」
「気に入っていただけたようで良かったです」

きらきらと光る港の明かりと、今日歩いた街の明かりがよく見える。せっかく来たならばこの景色を見たいという申渡くんの気持ちもよく分かる。これを見ないで帰るなんて絶対損だ。ライトアップされた青と紫の明かりが揺れているのが見える。こんなきれいな景色を一日の終わりに見れるなんて、それだけで今日はなんて素晴らしい一日だったんだろうという気持ちになる。もちろんそれでなくったって、申渡くんと一緒にいられた今日は本当に楽しかったのだけれど。

もう一度この夜景を目に焼き付けようと見渡すと、そこで初めて周りがカップルだらけなことに気が付いてしまった。

しかも私たちよりも年上のカップルが多く、男性の方が女性の肩を抱き寄せたり、ふたりでじっと見つめ合ったりしていて――私は慌てて目をそらした。 さっきまではしゃいでいたのに、急にそれどころではなくなってしまった。もしかして、先ほどまでの私はこの公園の雰囲気に似つかわしくなかったのではないか。この場に相応しい行動というのもよく分からないけれども、せめてもう少し子どもっぽい言動は控えるべきだったのではないか。もしかして、もしかして、と色んな“もしかして”が頭の中に浮かんでは消えていく。

さん」

申渡くんに名前を呼ばれてハッと我に返る。慌ててそちらへ振り向くと、硬い表情の申渡くんがあった。どうしたのと尋ねる前に、両の肩を掴まれて彼と向き合う。ひどく真剣な彼の瞳に何故だか緊張して思わずぴっと背筋を伸ばしてしまった。 彼の手の触れる肩だけが異様に熱い。

さん」ともう一度申渡くんが私の名前を呼ぶので「はい」と返事をしたのだけれど、いつの間にか口の中がカラカラに乾いていて掠れた声しか出なかった。 申渡くんの後ろで青や紫、それにやわらかい色のオレンジが水面に映って、光の境目が曖昧になる。

「さわたりく――」

まっすぐにこちらを見つめる瞳が近づいてきて、私の言葉は途中で小さくなって途切れてしまった。心臓が一度大きく鳴って、それっきり呼吸の方法を忘れてしまった。はらりと彼の前髪が私の額に落ちて、強い光でこちらを見つめていた申渡くんの目が不意に伏せられる。 彼の瞳のやさしい色がよく見える。その中に映っているのは私の姿だけで――頭の中が申渡くんでいっぱいになっていると、不意に聞き覚えのある明るく元気な声が耳に飛び込んできた。

「あっ! 申渡だー!」

その声にハッと我に返る。それは申渡くんも同じだったようで、パッと彼の顔が上げられる。夜の公園にやや似つかわしくない声のする方へ視線を向けると、想像した通りのにこにこの笑顔がこちらへ走ってくる姿が見えた。

「戌峰がどうしてここに――」

ぶんぶんと手を振る戌峰くんがものすごいスピードでこちらへ向かってきて、そしてその勢いを殺すことのないまま申渡くんにぶつかって駆け抜けていった。

「わっ――」
「さ、申渡くん!」

ぶつかってバランスを崩した申渡くんの体が傾ぐ。海に面する手すり側に当たってそのまま彼の上半身はぐらりと向こう側へ吸い込まれそうになるのがまるでスローモーションで見えた。慌てて彼に飛びついてぎゅうと力いっぱい引き寄せると彼の重心がこちら側に戻ってくるのが分かった。

さん?!」
「申渡くん大丈夫?!」

顔だけ上げて尋ねるとそこには目を丸くさせた申渡くんがいた。ちゃんと手すりよりもこちら側に全身があって、どこも濡れていないし、しっかり両足を地面につけているし、見たところ怪我なんかもしていないようだった。

「あの、大丈夫ですから、その……」
「平気なら良かった……。本当に落ちちゃうかと思ってひやひやして」
「その、話すのにこの距離は少々近すぎるかと」

そこで初めて申渡くんにしがみついたままだったことに気が付いた。絶対に落とすまいとぎゅうと強く抱きしめていたものだから、顔をくっつけていた彼の胸からドキドキと心音が聞こえてきて私は「ぎゃ!」っと跳び離れた。

「ご、ごめん!」
「いえ、嫌とかではないので全然――」

私はなんて大胆なことをしてしまったのだろう。先ほど聞こえた彼の心音よりもずっと大きな自分の心臓の音が耳の奥で響いている。うるさすぎて申渡くんの声が聞こえないくらいだ。ぎゅうと胸のあたりの服を掴んでみたけれども、一向に収まりそうにない。申渡くんの顔を見れずにいると、いつの間にか戌峰くんが戻ってきていた。

「申渡大丈夫? ごめん……」
「いえ、私の方も注意が散漫でしたので」

戌峰くんは垂れた犬の耳が見えそうなくらいしょげかえった表情をしている。戌峰くんが人にぶつかってしまうのも珍しい。それと同時に申渡くんの方も何だか暗い顔をしていた。

「今日こそはと思っていたのですが……」

彼がそんな風に気落ちした様子を見せるのも珍しい。しかし何がと尋ねようか躊躇っている間に、次に顔を上げた申渡くんはもういつもと変わらない表情に戻っていた。

「そろそろ帰りましょう」

申渡くんの言葉に戌峰くんが「帰ろー!」と元気いっぱいに続く。時計を見るともう随分といい時間になっていた。いつの間にそんなに時が経ってしまったのか。いつも申渡くんと一緒にいる時間はすぐに過ぎていってしまう。今にも歌い出してひとりミュージカルを始めてしまいそうな戌峰くんの背を押して駅へ向かわせながら、名残惜しいけれども自分もそれに続く。

さん」

名前を呼ばれて振り向くと、彼がすっと私の右手を掬う。何か落とし物でもしてしまっただろうかとその声に答える前に、申渡くんは流れるようにその甲に小さく唇を落とした。

「この続きはまた次回に」

申渡くんと視線が絡む。それが先ほどの彼の真剣な瞳を思い出させた。あのとき両肩に乗せられた熱い手のひらも。その瞬間、彼の言葉が何を指しているのか気が付いてしまった。

また耳の奥で二つの心音が響いている。

2017.05.24