「今度の日曜、図書館で一緒に勉強しますか?」と誘ってくれたのは申渡くんの方からだった。

例えそれが「ひとりで勉強してると分からないことがあったときすぐに聞けないから困って」という私の言葉を受けたものだったとしても、これに私が図書館デートだ!と浮かれてしまったのは仕方のないことだと思う。申渡くんに誘われて断る理由なんて私の方にはありはしないのだ。

前日は服を選ぶのにああでもないこうでもないと何時間も頭を悩ませたし、家を出るまでに寝癖がついていないかどうか数十回は確認した。けれどもそんなものを気にすることが出来たのは申渡くんと駅で待ち合わせをしたときくらいで、図書館に入って勉強をしだしてからは自分の格好を気にしている余裕なんて一切なくなってしまった。

「ここはそれよりもこっちの公式を覚えて使った方が早いですよ」

しんとした図書館に、小声でも聞き取れるようにと申渡くんが私に顔を寄せる。仕方ないと分かっているのだけれど急に近付かれると心臓に悪い。多分申渡くんの方は何も気にしていないのだからこちらばかり意識してはいけないと、思わず仰け反りそうになった体をグッと元に戻す。今日一日で何度この動作を繰り返しただろう。

「そっか。ありがと」

もう少し気の利いた返事が出来れば良いのに、こんな素っ気ない返事しか出来なかった。正直申渡くんの教えてくれた内容なんて全然頭に入ってこなくて、ただ彼の言ったことをノートに書き写すので精一杯だった。あとで見返して何のことだか分かればいいのだけれど。

「ああ、それはこっちの――」

トントンと彼の綺麗な指が私の開いているページの一箇所を指す。私は何も考えずにその公式をノートに書き写して『ここ重要!』と書き足す。何がどんな風に重要なのか全く分かっていないくせに。今私にとって重要なのは、私のノートをのぞき込む申渡くんの髪と私の髪が触れてしまいそうなほど近い距離にあるということだけだった。

分からないことがあったらすぐに聞けるからという理由で一緒に勉強してもらっているはずなのに、私からは全く質問出来ていない。どうかこのことに申渡くんが気付いて疑問に思ったりしませんようにと願うばかりだった。

「じゃあこの解き方で何問か解いてみてください」

さらには時折、申渡くんが私の方をじっと見るものだから心臓が勝手にドキドキと鳴って落ち着かなかった。私の書く答えが合っているかどうか確かめるためだとは分かっていてもどうしても緊張する。つい力を込めすぎてシャーペンの芯を折ったり、落ちた髪を忙しなく耳にかけ直したりした。

先ほどの申渡くんの説明はこれっぽっちも頭に入っていなかったので、彼が指で示していた箇所に今さら目を通した。それでも文字が全部ただの記号にしか見えなくて、何度か繰り返し読んで何とか理解して問題を解いた。

休日の図書館は本を捲る音や少し遠くに子どもの声も聞こえ、適度にざわめいている。数席空けた隣に人も座っているし、完全なふたりきりというわけでもないのに私の全神経は申渡くんにだけ向いていて、私の全ては申渡くんを中心に回っている。

「――そろそろ終わりにしますか。もう夕方ですし、あんまり根を詰めすぎてもいけません」

彼の言葉に顔を上げると、いつの間にか影の位置が移動していた。

「もう……?」
「あなたは今日一日よく頑張ったと思いますよ」

これ以上やったって数式のひとつさえ全く頭に入らないくせに、もう少し申渡くんと一緒にいたいという思いが先行して残念がる声が出てしまった。彼は丁度私のやっていた単元がひとつ終わるところというこれ以上ないほど区切りの良いタイミングで声を掛けてくれていて、もう少しだけやっていきたいとは言いにくかった。

申渡くんがノートと教科書をトントンと揃えているのを見て慌てて私も片付けだす。焦りすぎたせいでプリント一枚をすっ飛ばして「そんなに慌てなくても置いていったりしませんから」と笑われてしまった。

数時間振りに外に出ると空の端がオレンジ色に染まっていて、少しだけ肌寒い風が吹いた。昼過ぎに待ち合わせしたとはいえ、勉強を始めたらあっという間に時間が経ってしまった。もっとも、私は勉強以外のことでいっぱいいっぱいになっていたのだけれど。数時間とはいえ申渡くんと長いこと一緒にいたから帰りたくないと思ってしまう。

「どうですか、次の試験に向けて少しは手応えが感じられましたか?」
「そ、そりゃあもう! 申渡くんに付きっきりで教えてもらったんだもん、ばっちりだよ! まさか申渡くんが図書館デートに付き合ってくれるなんて思わなかったから本当に嬉しくて」
「えっ」

申渡くんがひどく驚いた顔をするので、そこでやっと私は自分の口からとんでもない言葉が出たことに気が付いた。

「えっ……あっ! 違う! 違うの! これは私が勝手に思ってただけっていうか、いや勝手に思ってるだけでも迷惑だよね、本当そういうのじゃなくてただなんか似てるなーみたいな――」

言葉を重ねれば重ねるだけ墓穴を掘っている気がする。顔から火が出るなんてもんじゃない。羞恥で頭部が爆発してしまうんじゃないかと思うほど頬が熱かった。これは図書館デートじゃなくてただの勉強会なのに、いくらこっちが勝手に図書館デートだと思っていたとしてもそれを口に出すなんて。

「あの、今日は本当にありがと! それじゃ」

それだけ言って逃げ帰ろうとした。私の心臓は一日フル稼働していて、これ以上は堪えられそうになかった。けれども、駆け出す前に「待って」と私の右手を申渡くんが掴んだ。

「待ってください」

じくじくと、掴まれた右手が溶けそうだ。

「来週の日曜の予定は空いていますか?」
「申渡くん?」
「リベンジさせてください」

じっと申渡くんがこちらを見つめる。何を、と尋ねる前に申渡くんがその口を開く。今日一日いた図書館のどこか凛と張った空気を思い出して、思わず背筋が伸びた。

「今度はただの勉強会ではなく、“図書館デート”としてあなたをお誘いしています」

申渡くんに誘われて、断る理由なんて私の方にありはしないのだ。

2017.04.22