ふわりと甘い香りがした。この匂いには覚えがある。そう思った瞬間、少しずつ意識が浮上する感覚がした。

これはさっき食べたパウンドケーキと同じ匂いだ。その香りは段々強くなっていく。私は今日この香りをまとっていた人を知っている。覚醒しかけの脳みそがそこまで思考を辿り着かせたところで、ちゅっと小さな音を立てて瞼に何かが触れた。

「なゆきくん……?」

皆の練習が終わるのを待っていたつもりがいつの間にか眠ってしまっていたらしい。目を開けるとすぐ近くに人の影があった。何度か瞬きをしてピントが合うと、那雪くんは目を丸くして何だか驚いたような表情をしていた。やっぱりさっきの香りは那雪くんの匂いだったのだ。そう納得すると同時に少しずつ頭が働いてくる。那雪くんの顔との距離が近い。そう思った瞬間、彼がざっと勢いよく身を引いた。

「あっ、僕、今……」

那雪くんが口元を手で覆って一歩ずつ後退っていく。甘い匂いのするパウンドケーキはこの間私が零した言葉を拾い上げて、今日は私のために作ってくれたものだ。いつも皆のお弁当を作ったりする那雪くんのことだからきっとそれは普通のことだったかもしれないけれど、私はそれがとても嬉しかった。

身を起こして私が「那雪くん」ともう一度名前を呼ぶと彼はあからさまにビクリと体を震わせる。

「ご、ごめん!」

それだけ言うと寝起きで頭が回らずぽかんとしている私を残して那雪くんは走り去ってしまった。傍の机には別の部屋に置いていたはずの私の鞄があった。



それ以来、私は那雪くんに避けられている。

あのあと鞄を持って一階まで下りていくと星谷くんたちが待っていてくれていた。那雪くんは私を呼びにきてくれたようだったけど急用を思い出したとひどく焦った様子で走って行ってしまったのだという。その後も何度か那雪くんの“急用”に遭遇することがあった。

皆といるところで露骨に避けたりはしないけれど、視線は彷徨っているし、ふたりきりにならないようにしているように感じるし、何なら私と一番遠い位置になるようにしている気がする。たまに那雪くんだけ不在のときもある。今だって皆の一番後ろに隠れているように私には見えた。それらは確信を持つまでには至らなくても、違和感を覚えさせるには十分だった。

ぱちりと那雪くんと目が合う。

避けられているように感じるのに、こうして彼と視線が合うことは多くなった気がするのだ。じわりと左の瞼が熱を持ったような感覚がする。

「僕、皆の分も飲み物買ってくるね!」

しかし次の瞬間にはパッと視線を逸らされて、那雪くんは慌てたように部屋から出て行ってしまった。これまではもしかして私の思い過ごしなんじゃないかと楽観的に思ってみたりしたのだけれど、ここまであからさまでは疑いの余地はないように思えた。

しかしチーム鳳のメンバーはそれに気付いていないのか、もしくは皆気付いていながらもあえて触れないようにしてくれているのか知れないがまるで何事もないかのように彼を送り出している。

「私、那雪くんを手伝ってくる」

そう言って飛び出した私に、皆の驚く声は聞こえなかった。

そんなに時間の差はなかったように思えたのだけれど、廊下に出てみると那雪くんの姿は見えなかった。それが私を避けるための口実だったとしても飲み物を買ってくると言ったからには自販機のところだろうと思い角を曲がると、予想通り自販機からペットボトルを取り出している那雪くんの姿が見えた。

「那雪くん!」

私が名前を呼ぶと彼はハッとしたように振り返り私の姿を認めると、またすぐに視線を逸らして、そのまま駆け出してしまった。

「那雪くん待って!」

それを追って私も走り出したのだけれど、那雪くんとの距離は一向に縮まらない。どんどん引き離されて彼の背中が小さくなっていく。

「待ってってば……!」

私の声は聞こえているはずなのに、那雪くんはそれに応えてはくれない。彼とこんなに体力の差があるなんて思わなかった。普段の那雪くんは私を置いていったりしないし、むしろ私を気遣ってくれていた。彼がそうしようと思えばこんなにも簡単に距離が開いてしまうものだなんて知らなかった。

那雪くんが私を避けているという事実がこれ以上ないほど確定してしまって、そのことが私の足をどんどん鉛のように重くしているようだった。これだけ全力で逃げられているのだ。追いついたとして、もし拒絶されたらどうしよう。一瞬脳裏を過ぎったその考えは十分あり得ることのように思えて、今度は段々呼吸まで苦しくなってくる。いつもだったらこれくらいの距離を走ったって息切れなんかしないのに。

「はぁ……はぁ……」

ついに足を止めて膝に手をつく。大きく肩で息をしているのに胸に何かがつかえているように空気が上手く入ってこない。

こうやって私が足を止めている間に那雪くんはどんどん先に行って、きっと今度こそ追いつけなくなってしまう。もう一度走り出さなくてはと顔を上げようとした瞬間、やわらかく甘い香りが鼻を掠めた。やさしい手が背中に触れる。

「……大丈夫?」

そう言って那雪くんが私の背中をさすってくれる。私から逃げていたはずなのに私を心配して様子を見にきてしまうなんて那雪くんらしかった。ゆっくり息を吸い込むと今度はちゃんと肺の奥まで新鮮な空気が入ってくる。

「ありがとう」

そう答えた私の声はまだ掠れていたけれども、那雪くんがさすってくれるおかげで少しずつ楽になっていった。廊下には他の人影はなく、衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。

「……どうして僕を追いかけてきてくれたの?」
「那雪くんに聞きたいことがあって」

顔を上げて正面からまっすぐ那雪くんを見つめると、彼の瞳がびくりと揺れた。私を心配してわざわざ戻ってきた彼がまた逃げてしまうとは思っていなかったけれども、つい勢いで彼の右手を掴んだ。

「ねえ、私のこと避けてる?」

もう直球に聞いてしまった。遠回りしたってどう話を振ったら良いのか分からないのだからきっと同じことだ。私はあまり駆け引きだとかそういうのは得意じゃない。

「この間から那雪くんの態度がおかしい気がして。……寝ていた私を迎えに来てくれたとき」

あのときはまるで夢の中にいるかのようにふわふわとした幸せな気持ちだった。他の誰でもない那雪くんが迎えに来てくれたことも、彼の心が私に向いているように思えたことも。

「もし、私の勘違いじゃなかったら瞼に……」

キスした?とまでははっきり言えなかった。けれどもそれだけで彼は察したようで、私の言葉の途中までで顔を真っ赤にさせてさらに小さく縮こまってしまった。

「そのこと、なんだけど……ごめん。本当はきちんと謝らなきゃいけなかったのにずっと逃げ回ってて」
「……どうして、謝るの?」

謝ってほしいわけじゃないのに。もちろん那雪くんにこんな顔をさせたいわけでもない。私がほしいのは、期待していた言葉はもっと他のものだった。那雪くんからすれば、なかったことにしたい出来事かもしれない。これだけ私のことを避けるくらいだ。一時の気の迷いか何かだと言われてもおかしくない。そもそも全て私の気のせいで、寝惚けて見た夢なのだという可能性もゼロではない。理由を尋ねるのは少しだけ怖かった。

「だって、勝手に気持ちを押し付けて」

そう続けて那雪くんはさらに視線を俯かせる。彼の手は振り払われはしなかったけれど、代わりに力なくだらりと私の手の中にあるだけで握り返されもしなかった。

「それに、僕はさんに相応しくないから」
「何それ。誰が言ったの? 誰が決めたの?」

思わず彼の手首を掴む手に力が入る。一体誰がそんなことを言うのか。もしかしたらそんな事実はなくて、那雪くんのいつもの“考え過ぎ”なのかもしれない。それでも誰かの言葉だったとしてもそうでなかったとしてもどちらにせよ那雪くんがそういう風に思っていることは事実なのだろう。そう思うとふつりとお腹の底から何かが込み上げてくるような感覚があった。それはじわじわと徐々にお腹から胸へと上ってくる。

どうして他でもない那雪くん自身からそんな言葉を聞かなくてはならないのだろう。

那雪くんはいつも私のことをすごいだとか素敵だとか褒めてくれるけれど、本当の私はそんな立派な女の子ではなくて。やさしくて、いつも他人を気遣うことが出来て、夢に向かって努力している那雪くんの方がずっとずっと素敵な人で。

「私が、私が好きなのは――」

那雪くんみたいな人に、特段取り柄のない私なんか見合わない。そう思って私がずっと言えずにいたことを彼は知らないのだ。

2017.09.10