ひらりと視界の端に薄桃色の欠片が映ったような気がした。
もちろん、そんなものは気のせいだ。夕方の冷たくなった風が校舎の隙間を吹き抜ける。夏服から衣替えを済ませ、カーディガンを羽織っているとはいえ、日が暮れると冷える。私はぶるりと一度身を震わせ、腕を擦る。時計を確認するまでもなかった。
放課後、話があるから来てと彼に言ったのは完全に勢いだった。校舎裏の桜の木の下で待ってるとだけ伝えて、彼の返事を待たずに去ってしまったから、もしかしたら委員会の用事があったのかもとか、先生に呼び出されていたのかもとか、そうやって彼の来ない理由を都合の良いように考えて、ずるずるとこんな時間まで待っていたのだ。
「帰ろう……」
そうひとり呟いた声は想像していたよりもひどく沈んだように聞こえた。
校舎裏の桜の木の下は学園内でも有名な告白スポットだ。特に卒業式が近くなる季節はこの木の下に立つ女子生徒と男子生徒の姿をよく見かけた。しかし、今は人気がなく、ひどくさびしい場所になっていた。こんな風の冷たくなる季節には皆この木のことを忘れてしまうのか。
それでも、彼にはこの場所がどういう場所かすぐに分かったに違いない。きっと、ここで私が言おうとしている言葉も。
「南條のばか……」
友達だから、きっと来てくれるに違いないと思っていた。友達だから、きっと私の言葉を聞いてくれるだろうと思っていた。――友達だから、断られることは分かっていた。
けれども、ずるい私は約束を言い逃げてしまえばこちらのものだと思っていたのだ。まさか来てすらくれないとは予想外だったけれど。
多分、これが南條の答えなのだ。私の言葉を聞いてしまえば、今までのようにただの友達には戻れない。でも、聞かなければ、なかったことに出来る。
考えれば、面倒事を避ける南條らしい選択だった。
上を向いて鼻をすすれば、思ったよりも大きな音がした。
完全下校まではまだ時間があるからか、校舎の外にほとんど生徒の姿はない。誰かに会ってしまったら、限界まで張り詰めた糸がぷつんと切れてしまいそうで怖かった。
周りに人がいないこの隙にさっさと帰ってしまおうと、足早に校門の前を通り過ぎようとしたときだった。
不意に柱の影から手が伸びてきて、私の腕を掴んだ。
思わず上げてしまいそうになった悲鳴を何とか飲み込んでそちらを見ると、見覚えのある人影が門の柱に寄りかかっていた。見間違えるはずがない。
「なん、じょう……?」
「せめてどこの桜の木なのか教えてから逃げてくれない?」
辺りには強い夕日が差しているのに、ちょうど影に隠れて南條の顔だけがよく見えない。彼がこんなところにいて、しかも私を引き止めているという事実が信じられなくて口をぱくぱくと開けることしか出来なかった。
南條は約束の場所に来なかったのに。
「行き違いになるとか御免だからここで張ってたけど、随分粘ったねえ」
南條がここにいる理由も、私の腕を掴んだ理由も、その言葉の意味も何もかもが分からなくて、やっとの思いで「どうして」とだけ口にしたのに、彼はそれに答えなかった。
「ハッ、ひどい顔」
そう言って南條が笑う。涙を流したつもりはないから、そこまで分かりやすくぐちゃぐちゃな顔をしていないはずだ。けれども驚きで間抜けな顔をしている自覚はあるから、もしかしたら彼はそちらのことを言っているのかもしれなかった。
「そんなに俺のことが好き?」
ひゅっと自分の息を飲む音が聞こえた。
もうその気持ちは桜の木の下に置いていったつもりだったのに。まさかこんなところで尋ねられるなんて思っていなくて、咄嗟に声が出なかった。
それを聞いて南條はどうするつもりなのか。南條は誰とでも上手く付き合って、面倒事を上手く避けて、誰とも一定の距離を置く人だ。きっと特別を作らない。私もそのただの友達のうちのひとりだって、思い知らされたばかりだったはずなのに。
すっかり固まって答えない私に、南條は「ま、別に言わなくてもいいけど」といつもの調子で言う。
「散々逃げた埋め合わせはしてもらわないと」
するりと手を取られる。あまりにも自然な仕草でそれに指を絡めるものだから、思わず驚いて手を引こうとすると、それ以上の力で引き戻されてしまった。
「俺に伝えたかったのってこういうことでしょ?」
私はただ伝えたかったのだ。育ちきってしまったこの気持ちを胸の中にしまったままでいるのが苦しくなってしまって、それをどうにかして吐き出したかった。
だから、その先の、伝えたあとにどうなるかだとかは考えていなかった。意識して考えないようにしていたのに。
絡められた指先の意味なんて知らない。
「……本当ひどい顔」
もう一度同じ言葉を繰り返すと、南條が私の頬に触れ、顔を覗き込む。夕日の色に染まった彼は、眩しそうに目を細めていた。
2018.09.29