「あんた」
そう声を掛けられて振り返ると、そこにいたのはたまに見かける男の子だった。確か近くのカフェレストランでバイトしている子だったように思う。一度も喋ったことがないし、名前も知らない。そんな人が一体何の用だろう。今まで間近で見たことがなかったけれど、目の前に立たれると私よりもずっと背が高いし、無表情でどこか威圧感があって少し怖い。まるで不良みたいだ。
「ちょっと面貸してくんねーか」
つつつ面貸してくんねーか?! これは不良が人を呼び出すときに使う台詞なのでは? 前言撤回、“不良みたい”ではなく彼は正真正銘“不良”に違いない。でも、ほぼ初対面の私に不良が一体何の用事が……。もしかしてカツアゲ?! だとしたら今手持ちは千円と小銭くらいしかない。しかもこれを全部渡してしまったら私は帰りの電車賃がなくなってしまう。いっそ逃げ出してしまおうかとも思ったけれど、すでに歩き出していた彼がタイミング良く「こっちだ」と振り返ってきたので私はぶるぶる震えながらついていくしかなかった。
*
連れ出されたのはうちの店の路地裏で、今度こそ絶対に“不良の呼び出し”だと確信した。先を歩く彼が大通りへの道を塞ぐようにこちらを振り返ったので、逆光で彼の表情が見えづらい。
「あんた、よく店の前を走ってるだろ」
突然何の話なのか。事態が一切飲み込めず、ぽけーっと相手の顔を見上げると、彼は言葉を続ける。
「店のお使いとか多分バイトに遅刻しそうだとかで」
「えっーと、走ってたような、走ってないような……」
正確に言えば、絶対に走ったことがあるだろう。それも彼の予想通りバイトに遅刻しそうになったことが理由で。店のお使いはあまり記憶にないけれども、店長に急いで買ってきてと言われれば走ったこともあったかもしれない。しかし彼の目的が分からない以上、迂闊に正直な答えを言うわけにはいかなかった。もしかしたら『うちの店の前を走るなんて誰に許可取ってんだ?』と難癖をつけられて金銭を要求されてしまうかもしれない。
「……」
「……」
私が曖昧に誤魔化したせいで気まずい沈黙が流れる。幸運なことに、これまでの人生ではこうして不良に絡まれたことがないのでどうしたら良いか分からない。胸の前で手を握り合わせてちらちらと彼の様子を窺うと、「まぁ走ってたか走ってないかはどうでもいい」という声が聞こえた。やっぱりどちらにせよ金銭を要求するつもりだったのだ……!
「付き合ってくれ」
一体何万円というお金を要求されるのだろうと身構えていたのに、耳に飛び込んできた言葉は予想とはまったく違うものだった。彼の言葉をすぐに飲み込めずに、私がぱちぱちと瞬きを繰り返すと、それまでジッとこちらを見ていた彼が不意に視線を逸らす。すぐあとに「やべ、間違えた」だとか「まぁいいか」だとか言う声が小さく聞こえた。けれども私の脳みそはその言葉の意味を考える余裕なんて全くなくて、先ほどの彼の言葉がぐるぐると回り続けていた。ツキアッテクレ、つきあってくれ、付き合ってくれ――?
幼少の頃からいくつもの少女漫画を読んできた私にとって、その言葉は特別なときに特別な想いで告げられるものとして認識していた。その漫画の中の女の子は校舎裏だとかで想いを寄せる男の子から同じ言葉を受け取っていた。
けれども同じ“裏”でも校舎裏と路地裏では随分と違う。
「それは、その、まさかとは思うんですが、恋人という意味で……?」
もし私の勘違いだったらそれでいいのだ。むしろ、勘違いという可能性の方が高い。何しろ私と彼はこれまで喋ったことがないし、こんなちんちくりんを彼がそういう意味で相手にするとは思えない。彼自体大人っぽいし、きっと大人のお姉さん以外に興味がないに決まってる。
「そうだ」
興味がないに決まってるのに、何故か彼は逆の答えを口にするものだから私はさらに混乱するしかなかった。何故ろくに話したこともない彼が私に告白するのだろう。これは絶対に裏があるに違いないと思うのに、それらしい理由はこれっぽっちも思い当たらないのだ。実家がお金持ちというわけでもないし、ステータスが上がるお嬢様学校に通っているわけでもないし、当然美人でもないし、私と付き合うメリットなんて一切ないのに。ちらりと彼の方を見るとものすごく険しい表情でこちらを見ていた。
「それで返事は?」
「はい……!」
「いいのか?」
「いや、あの」
「聞こえねぇ」
「はい!」
勢いに任せて“はい”と返事をしてしまった。まったく、これっぽっちも良くないのに。でも先ほどの彼はイエス以外の返事を認めないような迫力があったし、もしノーと答えたら何をされるか分からない。ももも、もしかしたら殺されてしまうかも――
「そっか」
私がそんな不安にドキドキしている間に彼は私の答えを受け取ってしまった。これでもう撤回が出来なくなってしまった。彼の満足のいく答えを返せたようで、今すぐボコボコにされるだとかすぐさまの危険は去ったように思えるけれどもこれから私はどうなってしまうのだろう。
「あの、私あなたのお名前も知らないんですけど」
「空閑愁」
「空閑くん?」
私が彼の名前を呼んでみると、ジッと彼がこちらを見てきたものだから私はまた縮み上がってしまった。
「ご、ごめんなさい! もっと違う呼び方の方が」
「いや、今はそれでいい」
本当は空閑様とでもお呼びした方が良かったのだろうか。でも、構わないと言ったのに私が呼び方を改めたらそれはそれで彼の面子を潰してしまうことになるかもしれない。不良の文化について詳しくないのでここは素直に彼の言うことに従っておくことにする。
「あと敬語」
「はい! 何かおかしなところでもございましたでしょうか……」
「何だ、その喋り」
そう言って彼がちょっと笑う。さすがに笑うと少し彼の纏う空気もゆるんでやわらかいものになる。せめてずっとそうやって笑っていてくれたらいいのにと思うのだけれど、次の瞬間には真顔に戻ってしまっていた。こわい。
「タメ口でいい」
そう言って彼はまた私の方を睨む。今日一日で何度睨まれただろう。そうして彼は一通り睨みを利かせたあと、この日一番のオソロシイ台詞を口にしたのだった。
「一応、俺の彼女になるんだろ」
その言葉には有無を言わさぬ迫力があるように聞こえて、私はさらに身を小さくした。今さら嫌だなんて言えないし、対抗する手段も思いつかない。逆らったら今度こそ何をされるか分からない。もう今さら後戻りは出来ない。
こうして私は空閑くんの彼女になってしまったのだった。
2017.05.21