「どう? 口に合うといいんだけど」

そう言って目の前の男は目を細めて微笑む。私は口元から下ろしかけたフォークを空中で止めて、ゆっくり咀嚼したものを飲み込んだ。そのあとににっこりと、なるべく上品に見えるような笑顔を作ってみせる。

「はい、とっても」

小さすぎて味がしない――

そんな本音はとてもじゃないが言えなかった。

照明が絞られてオレンジ色の明かりが揺らめく。会話を邪魔しない微かな音で音楽が流れている。そんなホテルのレストランで、向かいにはあの月皇遥斗が座っている。

まるで夢みたいに頭がふわふわしているけれども、これは間違いなく現実のはずだった。

「良かった。きみが気に入ると思って」

なんだか高そうだし、雰囲気もとても良いレストランだ。私でも名前を知っているような有名店。そこでこんな風に月皇遥斗に微笑まれたら――果たして『気に入らない』女性なんてこの世にいるだろうか。

「最近どこへ行っても、何を食べても、きみは食べたがるだろうかなんてことばかり考えているよ」

後ろでピアノがポロンとやわらかな音を奏でる。

私は彼の言葉の返事の代わりにもう一口お皿の上の料理を口に入れた。たった二口で皿の上は空になった。

視線を上げるとぱちりと目が合って彼が微笑む。

「上に部屋を取っているんだ」

また私は返事が出来なくなって、ワインを飲んで口の中に残っていたフランス料理を流し込んだ。



「わぁ、すごい!」

開けられたドアの向こう、きらめく夜景が窓の向こうに広がっているのを見て、思わず声が漏れた。

思わず駆け寄ると大きな窓の外一面にきらきらと宝石のように光が満ちていた。

「こっちは気に入ってもらえたようで良かったよ」

私のあとをゆっくり歩いて近付いてきた遥斗さんが言う。先ほどのレストランでのお世辞はすっかり見破られてしまっていたようだった。

隣に立った彼がこちらをじっと見下ろす視線を感じて少し居心地が悪くなる。

「嘘吐いたわけじゃないです」
「分かっているよ。少し緊張させてしまったかな」

飲み込むべき料理もない今は「でもほんの少しだけですよ」と答えるしかなかった。もっと上手い答え方を知っていれば良かったのだけれど。

もう一度窓の外へ視線を向けると、所在なさげな顔をした私がガラスに映っていた。

「普通逆だと思うけどね」

そう言って遥斗さんが困ったように笑う。

ここで私はようやく本来なら今の状況にこそ緊張すべきだということに気が付いた。

「分かりやすいのが好きなんです」

つい言い訳のような調子になってしまった。この場にそぐわない子どもっぽい言動だったと後悔したけれども、遥斗さんは「きみらしいな」とやわらかい声で言う。

フランス料理は素敵だとは思うけれど、少しだけ私には難しい。この夜景は単純に綺麗だったから思わずはしゃいだ声が出た。本当にただそれだけの違いであって、レストランに誘われたことが嫌だったわけではないのだ。

「それじゃあ俺は?」
「遥斗さんは何考えているか分かりづらいです」
「はは、きみの前では俺も随分単純になってしまっていると思っていたんだけどなぁ」

その言葉がもうすでに私にとっては難しい。――遥斗さんが何を考えてそんなことを私に言うのか分からない。

「俺のこと、嫌い?」

ちらりと彼の顔を見上げてしまったのがいけなかった。彼の海の底のような深い色の瞳に絡め取られてしまって、一瞬金縛りのように動けなくなってしまった。

「そんなこと聞いて、私の答えなんてとっくに分かっているんでしょう?」
「そうだな、嫌いだったら少なくともディナーの誘いになんて乗ってくれなかっただろうし、こんなところまでついてきてはくれなかっただろうなとは思うよ」
「やっぱり分かってて聞いてる」

彼の言う通り、この上なく分かりやすい行動で示してくれているとは思う。

でも彼はたまに突拍子のないこともするから、もしかして毎晩フランス料理を食べていたらどうしようだとか、本当に善意で夜景を見せてくれただけでこのあと帰すつもりだったらどうしようだとか。月皇遥斗が毎晩高級フランス料理を食べていたって私は驚かないのだ。

「きみが好きだよ」

夜景と溶け合った星も瞬きを止めてしまったようだった。

いつか、もしかしたら、百分の一の確率くらいでこんな日がくるかもしれないと思ったことがないとは言わない。それでも彼の声で、彼の言葉で発せられたそれは十分な衝撃だった。

じわりじわりと指先が熱くなる。

「早くそう言ってくれれば良かったのに」

そしたら今日のフランス料理ももう少しおいしく食べられたかもしれないのに。

「遥斗さんにディナーに誘われるたび、私が毎回どんな気持ちだったか分かります?」
「舞い上がってはくれなかったみたいだけど」
「心の中では舞い上がってましたよ!」

毎回毎回正面で食事しながら破裂しそうになる心臓を押さえ込むのがどれだけ大変だったことか。遥斗さんに微笑まれて真っ赤になりそうな顔を隠すのがどれだけ大変だったことか。

「本当かい? そうなら良いなとずっと願っていたんだ」

ずっと遥斗さんに振り回されている――そう思うのに、彼の本当に嬉しそうな声を聞くと反論する言葉もなくなってしまうのだった。

2019.05.11