パリーンと大きな音が屋敷の廊下に響いたとき、この世の終わりだと思った。

「何をしている?」

私が飛び散った陶器の欠片を呆然と眺めていると、不意に声が落ちてきた。顔を上げると、よくよく知った人がこちらを見ていた。私の顔を認め、さらに私の足元に視線をやって微かに眉を顰めた。そこには無残に砕けた花瓶があった。

「新入りか」
「ももも、申し訳ありません!」

頭を床につけるくらい深く下げる。勢いよく頭を動かしたせいか、くらりと目眩がした。自分のしてしまったことの大きさを鈍い脳みそがやっと理解し始めたからかもしれない。

しかも、それを雇い主であるベルナルド家の方に見られてしまうなんて。

「本当に取り返しのつかないことをしてしまいました。弁償を……出来るかどうかは分かりませんが、とにかく今すぐ荷物をまとめます!」
「待て」
「もちろんここはすぐに片付け――」
「だから、待てと言っている」

私が砕けた花瓶の欠片を片付けようと伸ばした手を何かが引き止めた。

「素手で触るな。怪我をする」

驚いて顔を上げると、私の隣で同じように彼が膝をついて私の手首を握っていた。彼の瞳の色がよく見える。

さらに罪を重ねてしまったような気がして、私は伸ばしかけた手をさっと引っ込め、ほとんど飛び上がるように立ち上がった。彼も溜息を吐きながらそれに続く。

「どうせ地下の部屋には似たような花瓶がごろごろ眠っているんだ。ひとつくらい、なくなったところでどうせ誰も気付きやしない」

そう言って彼は鼻を鳴らし、くだらないとでも言うように花瓶だったものを見る。確かにこのベルナルド家のお屋敷には立派な調度品が沢山あり、それらの多くは飾られることなく仕舞われている。

「でも、誰かの特別なものだったかもしれません……」

誰かにとっては大切な思い出の詰まった品だったかもしれない。誰かにとっては見るたびに心を慰めてくれるものだったかもしれない。そう思うとただ一度の不注意のために取り返しのつかないことをしてしまったのだという思いが強くなる。

項垂れると花瓶だったものだけが視界に入った。

「だから、その、なんだ。……私は気にするなと言っているんだ!」

大きくなった声に驚いてそちらを見ると、彼と目が合う。私が瞬きをすると、彼は何故だか気まずそうに顔を逸らした。

私ではとても弁償しきれない金額のもので、その一点だけで強く責められたっておかしくないのだ。それなのに、彼は。

口を開けてから、言うべき言葉を持っていないことに気が付いた。

「その、“坊ちゃん”……」

私がそう呼ぶと彼は驚いたように目を丸くさせ、そのあとにひどく不機嫌そうに眉を歪めた。

「その呼び方はやめろ」
「ですが皆さんそう呼ばれます」
「アレックスでいい。年もそう変わらない人間にそんな風に呼ばれるのは我慢ならない」

そう言って彼は何かを追い払うように手を振る。言われてみれば私以外の使用人は皆ベテランの年上だったように思う。長くこのベルナルド家に仕えていて、未熟者は私ただひとりだ。

「……アレックス様」

しばらく悩んだ末にそう呼ぶと、また彼は何とも言えない微妙な顔をした。そう呼べと言ったのは彼自身のはずなのに。

「とにかく、この場は私が何とかしてやる。もう下がれ」
「あ、片付けぐらいは自分で」
「だから、触るなと言っている」

今まで機会もなかったから彼のことはよく知らなかった。なんとなく近寄りがたいと思っていたのだけれど、思ったよりも彼は表情を変える人だった。窓越しに見た、庭を歩く彼は美しく違う世界に住む人だと思っていたのに。

心配してくれているのだと、思うとつい頬がゆるんだ。今日初めて言葉を交わしたような使用人に心を傾けてくれている。とんでもないことをしておいて、不謹慎だとも思うけれども、それがとても嬉しかった。

私が小さく笑みを零すと、彼はもう一度溜息を落とした。

2019.08.31