ある晴れた日のことだった。

「なんだ、きみか」

私が名前を呼ぶ声に振り向いた彼は、いつもよりずっと穏やかな表情をしていた。それは春の昼下がりのやわらかな陽の光が偶然見せたものだったかもしれない。

こんなふうに笑う人だったかと驚くのと同時に、ドキリと心臓が大きく脈打った。なぜだか見てはいけないものを見てしまったような気さえした。

一度目をそらしてしまったものの、もう一度その表情を見てみたくて視線を戻す。けれども、先ほどの笑顔はまるで幻だったかのように、まっすぐ強くこちらを見返す瞳はいつもと変わらない彼のものだった。



「暁くんっ!」

寒さに身を縮こまらせて歩く彼の後ろ姿を見つけて、声を張り上げる。すると彼はぴたりと歩みを止めた。その間に私は彼のもとへ走ったのだけれど、暁くんはなかなかこちらを振り返らなかった。

多分、向こうを向いたまま溜息を吐いているのだろう。私の大きな声に近くの通行人も思わず振り返ってしまっていたから。

「暁くん!」
「朝から声が大きいよ」

私があと少しで彼の隣に並ぶというところで、彼がこちらへ顔を向けた。呆れたように言いながらも、律儀に私を待って、返事を返してくれるところが暁くんらしい。

「おはよう」

きちんと朝の挨拶をしてくれるところも。

「おはよう、暁くん」

彼に挨拶を返すと、今日も一日が始まったのだという実感が湧く。むずむずとくすぐったくて、でも心地良い。

「また随分と早いね」

その言葉に答えようとしたとき、ぴゅうと北風が吹いた。目の前の暁くんが反射的に首をすくめる。ぎゅっと身を縮こませる姿があまりにも素早かったものだから、つい口元がゆるんでしまった。「寒いねえ」と言うと、暁くんが閉じた目をゆっくり開ける。

「きみは寒くないのかい?」
「寒いけど大丈夫」
「何が大丈夫なんだ」

そう言って暁くんは訝しげに目を細めた。私の制服姿を上から下まで見て、さらに眉間のしわを深くする。コートくらい着た方が良いと思われているのかもしれない。

「女の子が体を冷やすのは感心しないよ」
「おしゃれは我慢だよ」

モコモコと着膨れするよりも、もっと春らしい格好をしたいと思ってしまったのだ。欲を言えば、彼にいつもと違うねと思ってほしかった。多分、彼は女の子の服装にそんなことを口に出しては言わないだろうけれども。

「昨日は暖かかったし」
「昨日の話だろう?」
「明後日にはまた寒さもやわらぐって」

次の季節がやってくるのはもうすぐそこなのだろう。暦上ではすでに春だが、今日はまた北風が強く吹いて冬に戻ってしまったかのようだ。

――早く暖かくなってほしいけれども、春にはなってほしくない。

「まったく」

暁くんは眉間にしわを寄せたまま、今度こそはっきりと溜息を吐く。私のはぐらかし方が上手でないことは自分が一番良く分かっている。

「あんまりのんびりしていると遅刻するよ」

そう言って暁くんはくるりと踵を返して、歩き始めてしまう。

「待って、暁くん」

彼が早く暖かい教室へ行きたいのは分かる。こんな寒い中でわざわざ立ち話している必要もない。お喋りなら歩きながらでも、教室に着いてからでも出来る。

「暁くん」

彼の名前を呼ぶ声が北風に攫われていく。

――私はただ、もう一度あの彼の表情を見たかっただけなのだ。

何度も彼の名前を呼んでいれば、ふとした瞬間に彼はまたあの表情を見せてくれるかもしれない。今回はダメでも、次振り返ったときには。そう思うのをやめられずに今日まできてしまった。

「暁くん」
「そう何度も呼ばなくともちゃんと聞こえているよ」

伸ばした手があと少しで彼に届くというところで、暁くんが振り返る。私は反射的にぱっと手を引っ込めた。暁くんはそれに気付く様子もなく、仕方ないなと言うように眉を下げる。

私はついぞ諦めが悪いのだ。

季節の変わり目はもうすぐそこまで来ている。

2019.03.27