医務室の戸を開けるとそこには黒い忍装束を身にまとった人物がいた。部屋の中央に横座りしている彼の腕には包帯が巻かれている。ここは医務室なのだから、包帯を巻いた人がいるのはおかしくない。おかしくないのだが。
「何やってるんですか、雑渡さん」
私が呆れた声で言うとその人物は首だけでこちらを振り返った。横座りにそのポーズはまるで女の人のようだ。私がぼんやりとそんなことを考えているのを知ってか知らずか、彼は「やぁ」とのんびりした挨拶をする。
「大声で人を呼びますよ。きゃー曲者ー!って」 「君はそんなことしないよ」
曲者ははっきりと言い切る。何で私の心が読めるのだ、と焦ったのだけれど、冷静に考えればなんてことはない。私が一歩部屋に踏み込んで、手を戸にかけているのだから、私が人を呼ぶ意思がないことぐらい彼には簡単に分かってしまったのだろう。さすがプロの忍者だと私は感心した。
「こんな真昼間から曲者さんは一体何の用なんですか?見つかったのが私だったから良かったものの、他の人に見つかったら面倒ですよ」 「そこのところは大丈夫。ちゃんと入門表にサインしてきたから」
ちゃんと入門表にサインする曲者なんて聞いたことがない。でも小松田さんなら例え相手がプロの忍者だとしてもサインをしてもらうまで追いかけそうだ。そしてこの人ならそれに快くサインをしそうだと思ってしまった。「まぁ嘘だけど」本当にこの曲者は掴めない。
私はきちんと部屋に足を踏み入れると戸をきっちりと閉めた。この人が上級生や先生に見つかると面倒だ。あっさり私に見つかったところを見ると、どうも学園のことを探りに来たわけでもなさそうだし。この人が本気を出せば誰にも気付かれずに学園に侵入して誰にも気付かれずに帰るくらいはたやすいはずだ。だから、少なくとも今日のこの人は安全だと私は判断することにした。
「君以外の人が来たら隠れるつもりだったけどね」
包帯から覗く右目が私を捉える。私はドキリとした。本当にこの人は他人の心の内を読むことが出来るんじゃないかって本気で思う。読心術ぐらいは心得てそうだけれども、私の心の内がすべて暴かれているんじゃないかってたまにこわくなる。
「大体、こんなところにいていいんですか?雑渡さんって忙しいんじゃないんですか?それともタソガレドキの組頭は意外と仕事ないんですか?」 「んー、今日は三ヶ月ぶりの休日。部下にいい加減休めって言われちゃってねぇ。だから今日は暇なの」
嫌味に対してすべてきっちりと返される。やっぱりこの人に口では敵わない。お手上げ状態だ。雑渡さんには私の考えていることなどすべてお見通しなんだろうけど、私には向こうの考えなどさっぱり分からないのだ。もっとも口どころか、まがいなりにもプロの忍者、しかも組頭などという地位の高い忍者にくのいち見習いの私なんかが敵うことなどひとつたちともありはしないのだろうけれど。私は小さく溜息を吐いた。
「溜息なんて吐くと幸せが逃げるよ」 「誰のせいだと思ってるんですか」 「午前の授業で疲れちゃったのかな?」
私はもうひとつ溜息を落とす。この人に何を言ったって無駄だ。私との会話を楽しんでいる。この人に勝てるわけがないのだから相手にするだけ無駄だと私は諦めることにした。
「雑渡さんお茶いります?」 「淹れてくれるのかい?やさしいねぇ」 「せっかく来てくださったので」
私がお茶を淹れるため棚に足を向けると雑渡さんの体がぴくりと動いた。どうしたのだろうと私が疑問に思う間もなく右手を強く引かれる。そのまま私はバランスを崩して力の方向へ引きずられる。腕を掴まれ視界がぐるりと回る。
一瞬の出来事。あまりにも鮮やかな手際に私は声を上げることすら出来なかった。スパンという小さな音が聞こえたかと思うと私の視界は真っ暗になった。押入れに引きずり込まれたのだと理解するまで数秒かかった。
「ちょっと雑渡さん、一体何を―――」 「いい子だから少し静かにしていてね」
すぐ後ろの耳元から雑渡さんの声が聞こえて、私は背筋がぞくりとした。その声と共に彼の手が私の口を塞ぐ。けれどもその力は弱く、声もまるで赤子に言い聞かせるようなやさしいものだったから私は少し体の力を抜いた。彼の右手は私の腹に回されて、私は雑渡さんに後ろから抱きしめられるような格好になっていた。雑渡さんは私よりも随分と背が高いので抱きしめられるというよりは抱き包められるという表現の方が正しいかもしれない。そうして彼が気配を殺すものだから、私も必死で息を詰めた。押し黙ると私の心臓の音だけが異様に響くような気がした。ドキリドキリと雑渡さんに触れる背中が熱い。私はそれを意識しないようにきつく目を閉じた。
何が起こるのだろうと体を強張らせていると、遠くから足音が聞こえてきた。その足音はまだかすかなものだったが確実にこちらに近付いてきていた。これに気付くなんて雑渡さんはどんな耳をしているのだろうと私は驚いた。どんなにふざけていてもこの人はやはりプロの忍者なのだと思った。
近付いて大きくなった足音は医務室の前でぴたりと止まる。襖の開く音が聞こえた。医務室への訪問者は「あれ、誰もいない…」と不思議そうな声でそう呟くとスラリと襖を閉めてあっさり去った。遠ざかっていく足音。その足音が完全に聞こえなくなると雑渡さんは私の口を塞いでいた手を下ろした。
「危なかったね」 「い、いきなり何するんですか!危なかったねって私は関係ないし、それに第一あの声伊作くんだったし」 「つい、ね」
そう言う雑渡さんの声はいつもと同じ楽しそうなものだった。やっぱり私はからかわれていたのだろう。あんなかすかな足音が分かる彼だ、きっとその足音が誰のものかきっと検討がついていたに違いない。伊作くんだから見つかったって大騒ぎにならないことだって分かっているはずだ。
「でも君もやれば出来るじゃないか。ちゃんと気配消して」 「それは!」 「いい子だったね」
そう言って雑渡さんは私の頭を大きな手で撫でる。まるで子どもにするかのような仕草。でもその手付きは私を馬鹿にするようなものではなくて、本当にやさしいものだった。全部誤魔化されているような気がしなくもない。そう思っているのに絆されてしまう。きっと私は雑渡さんの手のひらの上で遊ばれているのだろう。
「子ども扱いしないでくださいよ」 「そうだね」
するりと髪に指を通して雑渡さんの手のひらが離れる。そんな風にあっさりとやめられると思っていなかったので、私は彼がすんなりと私の要求を聞いてくれたことに驚いた。そしてそれと同時に、離れる手のひらの温度を惜しいと感じたことも予想外だった。
「それじゃあ私はそろそろ帰るよ」
それを合図に押入れの戸が開けられて、同時にお腹に回されていた手も離れる。いきなり差し込んできた光に私は思わず目を閉じた。そうしているうちに後ろの気配が動いて、私の額に何かが触れた。雑渡さんの肘か何かだろうか。
目を開けたら雑渡さんはきっともういなくなっていると思ったのだけれど、意外にも彼は私の目の前、すぐ近くにいた。私の心臓はまたドキリと鳴った。この人が気配を消せることは分かったから、こんな心臓に悪いことはやめてほしい。雑渡さんは悪ふざけばかりだ。
「ごちそうさま。またね」
彼の雰囲気が一段とやわらかくなって、私がそれを彼が微笑んだからだと理解する頃にはもう彼の姿はどこにもなかった。
「結局お茶だしてないですよ、雑渡さん」小さく呟いた私の声は彼に届いたのかどうか。
手のひらの上の春
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