その日委員会が終わったのはすっかり日が暮れたあとだった。夕食の時間はとうに過ぎている。委員長の七松先輩は「滝夜叉丸ー!飯食いに行くぞー!」とすでに駆け出しており、随分と離れたところから私に声をかけたが、私はとりあえず先に汗を流したかった。風呂とまではいかなくても濡れた手ぬぐいで体を拭きたかった。

「あとで行きます!」

そう返すと七松先輩は「あんまり遅くなるなよー!」とだけ言って後輩たち皆を引き連れて食堂へ行った。委員長だけに下級生全員を任せてしまうものは申し訳ないとも思ったが、正直昼間あちこち駆けずり回ってそろそろ体力の限界だった。情けないような気がするが、比較対象が委員長では仕方ないと考えを改める。あの人の体力と常人の体力を比べてはいけない。自分は十分ついていった方だ。

そんなことを考えながらとぼとぼと長屋の方へ歩いていると途中で妙な物音がした。土の上を這うような音。曲者かと身を強ばらせ、気配を消してゆっくりとそちらへ近づいていく。このあたりから聞こえたはずだと目を凝らすと地面から手が生えていた。小さな桜色の爪。同じように小さな手に付いたそれは見覚えがあった。

先輩?」

恐る恐る尋ねると地面に掘られた穴から出ていた手がピクリと動いたかと思うと「きゃあ!」という短い悲鳴、土の上を何かが滑る音とともにその手が消えた。

先輩大丈夫ですか?」
「助けてくださーい」

穴の中から弱々しい声が聞こえる。これはきっと喜八郎が掘った穴だから出たくても出にくい構造になっているのだろう。ましてやくのたまでは腕の筋力のない者が多い。先輩もそのひとりだ。一体いつからここにいたのだろうと思いながら手を伸ばす。先輩の手が私に触れた。それをしっかり握って上に引き上げると土まみれの先輩が姿を現した。何度も自力で出ようとして失敗したのか、疲れ果てた姿だった。

「滝ちゃん、ありがとう」

“滝ちゃん”などと私を呼ぶのはこの忍術学園で先輩ただひとりだった。そんなかわいらしい呼び名は私に相応しくないと思うのだけれど、この人ににっこりと微笑まれながら呼ばれるとどうも調子が狂ってやめてくださいと言えなくなる。この私が人に振り回されることなどあってはならないと思うのだけれど、どうしてもこの先輩にだけは弱い。

「長屋まで送りましょう」

そう言って握ったままだった手をそのまま引く。先ほど見た桜色の爪先が私の手のひらに触れる。先輩は「え、大丈夫だよ」と言ったが黙って歩き出す。先輩は自分では何でも出来ると思っているらしいのだが、こちらからしたら危なっかしくて仕方ない。実際先輩の運動神経はあまりよくない。座学の成績は良いのだが、穴に落ちたりとどこか抜けている。また穴に落ちたらこんな時間に助けてくれる人など他にいないのだから安全策を取ったほうがいいはずだ。例えくのたま長屋がすぐそこだったとしても。

「滝ちゃんはすごいねぇ」

唐突に先輩は言う。きっと先ほど穴から引き上げたことを言っているのだろうと思い、振り返りもせず歩く。先輩はこうやって突然こんなふうなことを言い出すからいけない。

「そりゃあ私は優秀ですから」
「うん、そうだね。滝ちゃんは本当に優秀だよね」

嫌味でもなんでもなく、先輩は屈託なく言う。他の人のようにうんざりした表情を浮かべたり、聞き流したりしない。本心から私のことをすごいと思っているのだろう。いつもはすごいと褒められても当然のことだとしか思わないのに、何故かこの人に言われるとどこかくすぐったくなる。

「当然のことです」

そう言っても先輩はにこにこと笑って私の話を聞いている。調子が狂う。私のすべてを見透かされているような気がするのだ。でもそれが嫌ではない。

「ほら、もう長屋に着きますよ。ここまでくればすぐだからひとりでも大丈夫でしょう?」
「滝ちゃんいつもありがとう」

私は思わず先輩から視線をそらした。この人の目は澄みすぎていていけないと思う。

桜貝