後頭部の鈍い痛みと、「」とまるで絞り出すかのように私を呼ぶ声で私は目を覚ました。目を開くと見知った顔が並んでいた。しかもどれも揃って心配そうな表情をしている。

「あ、れ…?ハチに三郎と雷蔵。皆集まってどうしたの?」
「はー、良かったー。目覚ましたか」
「大丈夫?どこか痛くない?」

そう心配そうに問いかけてくるのはきっと雷蔵だ。私は体を起こして辺りを見回す。ここは見覚えがある。保健室だ。私は知らない間に保健室にいて、寝かされていたのだ。とりあえず手を広げたり握ったりしてみる。動く。

「少し後頭部が痛いけど、多分平気」
「んじゃきっと大丈夫だな!新野先生も命に別状はないって言ってたし」
「まったくもー、心配させんなよな。兵助なんて心配しすぎてぶっ倒れそうになってたぞ」
「へ、いすけ…?」

聞きなれない名前を反復してそれは誰だと質問しようとした瞬間、知らない男の声がした。

、無事で良かったよ」

そこには知らない男の子がいかにもほっとしたというようなやわらかい雰囲気を持つ表情で私を見つめていた。

「えっと、もしかして私を運んでくれた人かな?」

そこで私は回想する。今日の午後私は学園内を散歩していた。そこで誰かが、おそらく綾部が仕掛けた罠に足を引っ掛けた。そこでバランスを崩して、後ろに倒れそうになって、体勢を立て直そうとしたけれど結局は努力の甲斐虚しくそのまま勢い良く倒れた。さすがは天才トラパー綾部喜八郎の仕掛けた罠だと倒れながら感心してしまった。そんな余計なことを考えていたせいで受身を取るのが遅れたのは間違いない。そのとき誰かが私の名前を叫んだ気がしたけれども、それはこの人だったんだろうか。

「誰だか知らないけど、ありがとうございました」

ぺこりと下げた頭を上げると、彼の顔は真っ青になっていた。顔面蒼白で固まっている。どこか調子が悪いのだろうか。この人こそ保健室で寝ているべきだと思った。それとも本当に具合が悪くて保健室に来ていたただの人なのだろうか。

「は?、何言ってんだよ」
「久々知兵助だぞ。まさか忘れたとは言わせねーからな」
、大丈夫?」

雷蔵だけが心配した様子で私を覗き込んでくる。忘れたとは言わせないと言われても『くくちへいすけ』なんて名前聞いたことない。もちろん目の前の人の顔に見覚えもない。

「皆こんなときに冗談はやめてよねー。雷蔵まで一緒になって。『くくちへいすけ』って誰よ?この人のことでいいの?」

大体あんたたちに怪我人をいたわる気持ちはないわけ?と聞く。すると三人まで固まってしまった。彼らまでまるで具合が悪くないみたいな顔をする。

、本当に兵助のこと、分からないの?」

そう雷蔵に真剣に問われて私は記憶を探る。しかしどこをどう探しても『久々知兵助』なる人物は出てこない。本当は知っている人なのに名前と顔が一致しないとかだったらよくあるけれども、私はこの人の名前に聞き覚えも、顔に見覚えもなかった。装束の色が雷蔵たちと一緒だったから五年生ではあるのだろうけれど、私も同じ学年全員を把握しているわけではない。それはもちろん三郎たちも理解しているだろうに。それとも皆の方が勘違いしているのだろうか。きっとそうだ。自分達が彼のことを見知っているから私も当然知っているものと思い込んでいるのだろう。それか新手のいたずらだ。

「久々知くんは何組?」
「『久々知くん』?お前が兵助のことくん付けで呼ぶなんて気持ち悪ぃ」
「三郎、ちょっと黙って」

口を挟んだ三郎を雷蔵が鋭く遮る。気持ち悪いとは失礼な。私だって初対面の人間を呼び捨てるほど不躾な人間ではない。一体三郎は私を何だと思っているのだ。

「兵助はい組だけど?」
「ほらやっぱり私をからかってるんでしょう。私い組に勘右衛門以外友達いないもの」

このいたずらの発案者は誰?三郎?そう言って三人を見回すと皆こわい顔をしていた。え、何?もう演技はいいってば。そう言って笑い飛ばしたが、三人は顔を見合わせたまま黙り込んでしまった。まるで何かを考え込むかのように。きっと私が思ったような反応をしないからドッキリが成功しなくて困っているんだ。彼らが私にどんな反応を望んでいたかは知らないけれど、もっと面白いことをしてやるべきだったかと反省する。きっと今頃三郎辺りが頭の中で必死で筋書きを考え直している最中なのだ。

「とりあえず俺、新野先生を呼んでくる!」

そう言ってハチは保健室を飛び出していった。雷蔵は彼と私を交互に見ている。三郎は、私を睨みつけるようにしていた。何なんだ、一体。いったい本当にこの人は誰なんだろうと思考を巡らす。まぁきっと三人の新しい友達なんだろうけれど。

「えっと、久々知くん?」
「お前が、その声で、『久々知くん』なんて呼ぶな」

三郎に短く言われる。本当に吐き気がする、と。今度は雷蔵も何も言わなかった。じゃあ何て呼べと言うのだ。随分な言われようだ。また余計なことを喋ると三郎が怒りそうな気がしたので黙っていることにする。沈黙が続いたが誰も口を開く様子がない。まるでお葬式のように静かだ。居心地が悪いことこの上ない。だから、

「新野先生を連れてきたぞ」

とハチが帰ってきたとき、私はほっとしたのだ。新野先生は私の後頭部を念入りに診て、いくつかの質問をしたあと、「刺激はあまり与えない方が良いでしょうね」と言った。

「怪我自体は大したことありません。当分の間激しい運動は禁止ですが、今日はもう長屋に帰っていいでしょう。誰か送っていってあげなさい」

私は当然ハチと雷蔵と三郎の三人がくのたま長屋まで送っていってくれるものだと思っていたのに、予想外にも三人は私を残して去ってしまった。雷蔵だけは「お大事にね」と私に声を掛けてくれたけれども、三郎とハチは無言のままだった。なんて薄情なんだと私は憤った。そして私と久々知くんだけが残された。

「…送るよ」

小さく久々知くんが言った。釈然としないけれど、彼の好意を無駄にすることは出来ず、立ち上がろうとする。すると、彼がすっと手を差し出してきた。久々知くんにはお世話になってばかりだなぁと思いながらその手を取る。思ったよりも強い力で引かれて、勢い余って彼に抱きとめられる。

「う、わ!ご、ごめん」

パッと体を離したけれど、手はしっかり久々知くんに握られたままで離してくれない。「えっと、」と言葉と共に繋がれた手に視線を落として訴えてみたが、久々知くんはその私の無言の訴えを流した。

「まだ本調子じゃないみたいだな。早く長屋でゆっくりした方がいい」

そう言って私の手を引く。まるで私がまた倒れると思っているかのようだ。さすがに私もそうそう罠に掛からないし、いくら後頭部を打ったといっても新野先生も平気だと言っていたのに。手を引かれたまま中庭に下りて、そのまま久々知くんは何も言わずにざくざく歩き続ける。私は久々知くんよりも半歩後ろを引っ張られるようにして歩いているので久々知くんの表情は見えない。やっぱり長屋まで送ってもらうなんて迷惑だったかなぁと考えていると、ふと彼が歩みを止めた。

「久々知くん、」
「ねぇ、俺のことも名前で呼んで。ハチや三郎雷蔵、勘右衛門のことは名前で呼ぶだろう」
「まぁ四人は友達だし」
「じゃあ俺のことも名前で呼んでよ」

いきなり名前で呼んでくれと頼むなんて不思議な人だ、と思ったけれど、ろ組のあの三人と仲良くなったのなら自然なことなのかもしれない。きっと私の知らないところでもう随分と仲良くなっていたのだろう。い組なら当然勘右衛門とも仲が良くて、そんな中彼らといつも一緒にいる私を知らないということが久々知くんに疎外感を与えているのかもしれない。

「へいすけくん」

そう呼ぶと彼は嬉しいような悲しいような微妙な顔をした。私は名前を間違えてしまったのかと思った。確か三郎たちがそう呼んでいたと思ったのだが。でもそういうことじゃなかったらしい。

「呼び捨てで」
「…へーすけ」

躊躇いながらも小さく呼ぶと彼は小さく笑った。それがまるで『しあわせ』であったかのように。私はこの笑顔をどこか知っているような気がした。久々知くんの笑顔なんて今初めて見たのに。誰か知り合いの笑い顔に似ているのだろうか。ハチ?いや、ハチの笑顔はもっとニカっとした明るい笑顔だし、三郎のはニヤニヤという形容がよく似合うものだ。雷蔵の笑顔はもっと癒される柔らかい笑顔。どれも違う。もしかしたら女の子の友達に似ているのかも。性別が違うからすぐに思い付かないだけなのかも。

「へーすけ」

もう一回見たら思い出せるかもと思って再度名前を呼ぶ。

「なに?」

あ、今度は泣きそう。何故かとっさに久々知くんが泣いてしまうと思った。けれどもよく見ると久々知くんは笑っていた。泣き顔と笑い顔がこんなに似ている物だって今初めて知った。角度や光の加減によって泣き顔が笑顔に、笑顔が泣き顔に見えてしまうものなのだろう。

「へーすけ、へーすけへーすけ」

何だろう、このもどかしい感じは。分からなくて私は彼の名前を繰り返し呼ぶ。そうしたらそれが分かる気がして。

「へいすけ」
「うん、」

壊れたように私は彼の名前を繰り返しているのに、久々知くんはただ相槌を打って私がその続きを言うのを根気良く待っているようだった。私がまるでそうしないと久々知くんが逃げてしまうと思っているかのようにとしっかり握って離さない袖を気にする様子もない。嫌がる様子もなく、それを受容している。

「うん、なに?

ひどくやさしい声だ。何か言いたくて、でもそれが何なのか分からないこの気持ちを私が持て余していることを彼は全て理解しているかのようだった。そして『』と私の名前を呼んだその音はとても心地良くてたまらなかった。

「へいすけ」

何だろう、この気持ちは。彼とはさっき出会ったばっかなのに名前を呼び捨てにされても不愉快じゃない。今思えば第一声から私を『』と呼んでいたけれど気にならなかった。あまりにも彼が自然だったからだろうか。彼は初対面の女の子を呼び捨てにするタイプには見えないけれど、きっと三郎たちが呼んでいるのが移ってしまったのだろう。



また彼が私の名前を呼んだ。そして繋いでいた手を両手で握る。あたたかくて、大きな手だと思った。そんなことを考えているうちに、久々知くんがぎゅっと私を握る両手に力を入れた。何だろうと思って、それまで手元に落としていた視線を上げると、久々知くんの真剣な瞳が目の前にあった。久々知くんが何かを言おうと口を開いた瞬間、「それでねー」と言う女の子のはしゃいだ声が聞こえて、私はハッとして現実に返った。

「ご、ごめん。ここまででいいよ。あんまりくのたま長屋まで近づくと危ないし、私はもう大丈夫だから。本当にありがとう」

それだけ一気に並べて手を引くと、思ったよりもあっさり右手は離された。そのまま私は踵を返して長屋まで小走りで帰った。久々知くんが追いかけてくる気配はなかった。当然だ。途中で女の子ふたり組を見かけた。きっとさっき聞こえた声は彼女たちのものだったんだろうな、と思いながらすれ違う。軽く走ったせいで薄れていた後頭部の痛みが戻ってきた。私は頭を打ったせいでどこかおかしくなってしまったのだろうか。あんな風に初めて会った男の子と手を握り合って見つめ合って、平気でいるなんて。今までの私だったら突き飛ばして蹴りの一発二発お見舞するぐらいはしていたはずなのに。おかしい。おかしい。久々知くんにああされて嫌じゃなかった、なんて。>>