ホームルームが終わって私が手早く教科書を鞄にまとめているときに、丁度狙ったようにガラガラッと勢いよく教室の扉が開いて、「!」と大きな声が聞こえてくる。ああ、今日もまた間に合わなかった。

!一緒に帰ろう」

私がまだ「いいですよ」とも「嫌です」とも何も言っていないのに、肩を掴まれて半分抱きかかえられるようにしてずるずると引っ張られていく。一緒に帰ろうとしていた友人は苦笑のようなものを浮かべながら「おつかれさまー」と言った。私が困っているの分かっているのなら助けてくれたっていいのに、と少し恨めしく思う。

「ちょ、七松先輩、離してください!」
「んー、嫌だ。逃げるから」

この間離してくれと頼んで先輩が腕の力を弱めたところを狙って全速力で走って帰ったことを覚えていたのだろう。もちろん、私が体力で七松先輩に敵うはずもなく、下駄箱に着く前に再び捕らえられてしまったのだけれど。

「もう逃げませんよ」
「本当かぁ?」

私だって逃げたって無駄だということを学習したのだ。そんなわざわざ疲れるようなことはもうしない。「本当です」とはっきりと言うと七松先輩はしぶしぶと私を離した。けれどもまだ警戒しているのか、手はしっかり握られたままだった。私の手は七松先輩の大きな手に包まれるようにして引かれる。七松先輩の一歩はとても大きくて私はそのあとをついていくのがいつも大変だった。引っ張られて、階段もほとんど駆け下りるような形で下りる。

そのとき「小平太」と七松先輩を呼ぶ声がした。振り返ると七松先輩のお友達の先輩が階段の上からひょこりと顔を出していた。名前までは知らないけれど、何度か七松先輩と喋っているところを見たことがある人だ。

「小平太、こんなところにいたのか。伊作が探していたぞ」
「もう帰ったって言っといて」

そう言って七松先輩は声で誰か分かったのか、それとも興味がないのか、そちらを見ることさえせずにずんずん歩いていってしまう。声を掛けた先輩もそんな七松先輩に手を引かれている私をちらりと一瞥して「分かった」と簡単に引き下がってしまった。ちょっとそれでいいんですか、と言いたくなる。いくら自分の用事ではないからって、それではイサク先輩とやらが少しかわいそうではないですか。

「あの、行った方がいいんじゃないですか?大事な用かもしれないし」

七松先輩は歩くのが早いからあっという間に下駄箱まで着いてしまって、先輩はさっさと靴に履き替えてしまう。渋っていると手を引かれて上履きのまま外へ連れ出されてしまいそうな勢いだったので私も靴に履き替える。七松先輩が再び手を差し伸べるのでつい私はそれを取ってしまった。

「私にとってより大切なものなんてないからいいんだ」

七松先輩はすぐこういうことを言う。私は先輩の彼女でも何でもないのに。朝も昼も放課後も、こうして七松先輩は私に会いに来るけれども私は七松先輩の彼女ではないのだ。だって、告白されたこと、ないし。ほとんど毎日告白されているようなものだと思うけれど、はっきりと告白されたことはないから私は七松先輩の彼女ではないのだ。七松先輩の気持ちだって、まだ分からない。

「七松先輩はどうして、そんなに私に構うんですか」

常々疑問に思っていたことを口にしてみる。どうして七松先輩は私ばっかり気にかけるんですか、と。私も鈍感ではないから突拍子のない先輩の行動が何に起因するものか検討はついていたが、聞かずにはいられなかった。どうして私なんですか、と。七松先輩はモテないわけではないのに。数いる女の子の中でどうして私なんだろう。

とは運命で繋がれているからな」
「その運命っていうの何なんですか」

七松先輩はよくそういうことを言う。「は私の運命の人なんだ」と、おそろしく恥ずかしい台詞をけろりとした顔で言う。意外とロマンチストなんだなぁと思っていたが、こうして聞いてみるのは初めてだった。運命運命言うけれども別に私と七松先輩の出会いはちっとも運命的ではなかった、と思う。普通だ、普通。どこにでもある平凡な出会いだ。私がくじ引きで決まって入った委員会に七松先輩がいた、それだけの出会いだ。ドラマチックな演出は何もない。それなのに何を指して「運命」と言うのかはいつも疑問に思っていたことだった。

「この広い世界でとまた会えたのを運命と言わずに何と言うんだ?」
「また?」

引っかかる言葉があって聞き返す。今七松先輩は「また」と言っただろうか。

「昔七松先輩と会ったことありましたっけ?」

七松先輩みたいな人一度会ったら忘れそうにないものだけれど。もしかして小さい頃の七松先輩は引っ込み思案の大人しい子だったのだろうか。そうだったら私は気付かなかったかもしれない。きっと今のエネルギーが有り余っている七松先輩の印象が強すぎて、思い出せないのだろう。まぁそんな七松先輩の過去が存在したらの話だが。七松先輩のこの気質は持って生まれたようなものの気がするから、きっとそんな過去は存在しない。大人しい七松先輩なんて想像が出来ない。

「もしかして、は覚えていないのか?」
「何のことですか?」

私が聞き返すと七松先輩は自分から尋ねたことなのに私の答えには大して興味もなさそうに「ふーん」と言った。そして珍しく少し考え込むような仕草をして「通りでおかしいと思った」とも言った。こんな風に七松先輩が何か悩むような表情をするなんて意外だ。何かとんでもないことを言ってしまったような気分になる。なんとなく『なんだ、忘れてしまったのか』と笑って過去を捏造する七松先輩を想像していたので、何だか肩透かしをくらった気分になった。

「まぁ別に覚えてないならそれでもいっか」

だもんな」と言って笑った。あ、いつもの七松先輩だ。何故か私は安心する。それでもどこかさびしい気持ちが残る。私が七松先輩にあんな表情をさせてしまったのだと、罪悪感に似たものかもしれなかった。なんだろう、この気持ちは。

「えっと、ごめんなさい、私本当に忘れて…?」

もしかして本当のことだったのだろうか、という気がして咄嗟に謝ってしまう。大方七松先輩の勘違いに決まっているのに、もしかしたら、とも思う。もしかしたら本当に私が忘れてしまっているのかも、と。あんまりにも七松先輩が自信満々だからいけないんだ。

「そんな顔をするな」

ふわりと、太陽のにおいがした。

何事かと思ったら、七松先輩に正面から抱き締められているのだった。いつも背後や横から急に抱きつかれたりしたことはあったけれど、こうして正面からしっかりと抱き締められるのは初めてだった。私が逃げないようにと捕まえるためではなく、ただ抱き締められるのは。やさしく私を包むように腕が回されていた。

「な、七松せんぱい…!」
「小平太」
「へ?」
「昔みたいに小平太って呼んでくれたら離してやる」

そう言って七松先輩が私を抱き締める腕の力を強める。本当に離す気がないのだと分かった。七松先輩が本気を出したら私を腕の中に閉じ込めておくくらい簡単なことなのだ。今だって抵抗を試みているけれども、先輩の腕はびくともしない。それに例え腕の中から脱出できて走って逃げたとしても、すぐ追いつかれてしまうのは目に見えている。昔みたいにって一体いつ私がそんな風に先輩を呼んだことがあるのだと思ったが、どうせ言ったところで七松先輩は私の抗議を全て却下するだろうことは想像に難くなかった。だったらうじうじ悩んでこんな往来で抱き締められているところを誰かに見られるよりかは名前を呼ぶくらいさっさと済ませてしまった方が得策なのは火を見るより明らかだった。

「こ、へ、…」
「何?聞こえない」

この言葉だってきっと七松先輩にはいじわる言っている自覚ないんだろうな。

「こへいた、せんぱい」
「ん」

そう短く先輩は名前を呼ばれたことに対して返事をする。短いけれど、とてもやさしい声色だった、と思う。私がそう思いたいだけなのかも。七松先輩が今どんな表情をしているのか気になったけれども、顔を上げることは出来なかった。声色と同じようなやさしい瞳を、しているのだろうか。見たいと思ったけれど、もし顔を上げて七松先輩と目があったらどうしようと思うと心臓がドキドキと信じられないくらい胸を叩いた。このまましんでしまうと思った。

「今日はこのくらいで勘弁してやるか」

この爆発しそうな心臓の音が聞こえたのか、七松先輩はそう言ってやっと体を離した。やっと見上げた七松先輩は普段と変わらないけろりとした表情で私を見下ろしていた。私の顔はこんなにも熱くてきっと真っ赤になってしまっているだろうに、これじゃあ不公平だ、と思った。

「いったい何なんですか…」

私には七松先輩が自分を好く理由が分からない。気が付いたらこうだったというより七松先輩は最初から私を好いていたような気がするのは、こういう態度の印象が強すぎるからだろうか。特別先輩に親切にした覚えもないし、もちろん一目惚れされるような容姿をしていないことは自分が一番よく分かっている。それなのに七松先輩はある日突然私の目の前に現れて、私たちは運命で結ばれていると言うのだ。私には理解できなかった。

はまた少しずつ私を好きになってくれればいいんだ」

そう言って七松先輩は私の額にそっと口づけを落とした。

赤い糸を結び直して