私はすっかり困り果てて廊下を歩いていた。先ほど学園長先生の部屋の前を通ったのが間違いだったのだ。そのとき学園長先生にお使いを頼まれてしまい、暇だったから深く考えず了解するとその買い物リストが大量すぎてひとりで持ちきれないほどだったのだ。面倒くさいことになってしまったなぁと悩みながら保健室の前を通ると中から人の気配がするので「伊作ー?」と声を掛けながら戸を開けてみる。そこにはやはり思った通りの人物がいて私はほっとする。

「学園長からお使いを頼まれたんだけど、その量が半端なく重いの。私ひとりで持ちきれる自信ないから誰かにお手伝いをお願いしたいんだけど」
「悪いけど、僕は無理だよ?今日は新野先生がいらっしゃらないから僕が保健室を空けるのはちょっと」
「そっか。誰か頼まれてくれる人いないかなぁ」

そう言って私はがくっと肩を落としてみせた。正直伊作が最初で最後の頼みの綱だったのだ。伊作なら人がいいから絶対に頼んだら承諾してくれると思っていたのに。保健室の当番のことをすっかり失念していた。

「留さんは?今日暇だーって言ってたよ」
「えー無理だよ。こんな面倒くさいこと頼まれてくれるわけないって」

やっぱりひとりで行くしかないかなぁ。潮江文次郎に頼むと「それくらいの荷物ひとりで持てんでどうする!」とか怒られそうだし、立花仙蔵はついていく代わりに無理難題を押し付けられそうというかそもそも荷物持ちとか絶対やりそうにないし、私にはあの七松小平太を制御する自信ないし、中在家長次は図書当番だって聞いたし、あとは後輩を頼るしかないけれどそれも申し訳ないなぁ、などと考えているとガラッと戸が勢いよく開いた。突然した音に少し驚いて振り返るとそこには伊作曰く暇らしい食満留三郎が立っていた。

「おーい、伊作いるか?」
「ああ、留さん丁度いいところに。ちゃんが学園長のお使いの荷物持ちを探してるんだ。一緒に行ってあげなよ」
「ちょ、伊作!」

なんで勝手に頼むの!と止めようとしたけれども、彼は私の制止する声を聞かなかった振りをしてぬけぬけと最後まで言い切った。お供を探してくれるのは嬉しいけれども、そこまでしてくれなくていいのに、っていうかどうして食満に頼むの!もしも、もしも万が一食満が一緒に行ってくれるならそれほど嬉しいことはないけれども。でも、多分無理、

「おー、別にいいぞ」
「え、いいの?」
「おう」

こんな学園長のお使いで貴重な休日を潰したい人はいないだろうと思っていたからこの食満の返事は意外だった。自分だって学園長先生に直接頼まれてしまったから仕方なく引き受けたけれども、出来れば自分の好きなように時間を使えるならそっちの方が良かった。だからつい聞き返してしまってやっぱりやめたとか言われたらどうしようと思ったけれど、食満からはやはり良い返事が返ってきた。それが理解出来るとじわじわと嬉しさが込み上げてきた。

「別に他のやつ捕まえても良かったけど、食満が行ってもいいって言うなら食満でもいいかな」
「おおう!?急に上から目線だな」

こんなのお願いする人間のとる態度じゃないと分かっているけれども、素直に「ありがとう」の言葉が出てこない。嬉しいことを隠すためにそんなことを言ってしまって、食満の機嫌を損ねたらどうしようとも心配したけれど食満は変わらず笑顔を浮かべていた。

「なんだ?反抗期か?」

そう言って食満は私の頭をわしゃわしゃと撫でた。触んなし!と勢いで一瞬言いそうになったけれどそれは飲み込んだ。さっき反省したばかりなのだから同じことは繰り返さない。それなのに不意に食満が私の髪を一束掬うから、私は反射的にその手をパシンと払い落とした。

「さ、触んなし!」

かわいくない女だなぁとつくづく思う。ここで赤くなって俯くことが出来たならどんなに女の子らしいだろうと思うけれどそれが性分なのだから仕方ない。しかしこれにも食満は両手を上でひらひらさせて、気分を害した様子もなさそうにしていた。伊作の方を見ると、にこにことこちらを見守っている。

「はいはい、悪かったな。行ってやるから早く着替えてこいよ」


正門前で待ち合わせということになって私は一旦部屋に引き返す。長屋へ向かって歩きながらも服はどうしようかなんてことを気にしている。これって外から見たら逢い引きのように見えるのではないかとか思ってしまってなかなか支度が整わない。食満はもう待っているだろうから早くしないといけないのに。結局私は部屋を思いっきり散らかしたまま慌ただしく身支度をすませた。

「お、待たせ」
「おー、じゃあ行くか」

そう言って彼の隣とも後ろとも言える中途半端な位置を取って歩く。町娘の格好をしているというだけでなんだか自分の格好がとても気になる。薄く紅でも差してくれば良かったかと思った。いや、これは単なる学園長のお使いなのだ。こんな風に慌てる方がおかしい。ちらりと食満の様子を窺うと、彼と目が合ってしまった。弾かれるように私は慌てて視線をそらす。

「ん、どうした?」

食満が余裕の顔でなんとなく悔しい。私がどんなに必死になっても敵わないかのように思われるほど涼しい顔。実際敵わないのだ。彼の方が私よりいくつも年上であるかのように余裕たっぷりで、私はいつもそれに翻弄されてしまうのだ。ああ、そうやって私の顔を覗きこまないで!

「何でもない!ほら、早く行かないと日が暮れちゃう」

彼の顔を正面から見れるはずがなくて、思いっきり顔をそらしたままずんずんと歩き出す。こんな態度なのに全部見透かされてしまいそうな気がしてこわい。ダメなの、食満は誰にでも優しいんだから勘違いしたらダメなの。というよりもそもそも食満だってこんながさつでひねくれたのなんかお断りに決まってる。私も食満のこと好きなんかじゃない、これで全て問題ないはずだ。

「はいはい。けどそんなに早く歩かなくったっていいだろ、

私はビクリとその場に固まった。後ろを振り返ればまだ学園が見えるはずだ。まだ遅くない。今から戻ってやっぱり別の人に頼みなおそう。やっぱり伊作がいい。保健室には代わりの保健委員を置いておけばいい。そう思ったけれども、来た道を引き返すことも出来なかった。動けない。いや、体には何の異常も、支障もなくて、本当は動かないだけなのだと頭では分かっている。動け、動け、と念じてみるけれど、地面に根が生えてしまったかのようにもうこれ以上一歩も歩けない。おかしい、こんなのはおかしい。

「おーい、今度はどうした。大丈夫か?」

食満がなんだか楽しそうな顔で私を瞳に映す。大丈夫だからいちいち聞かないで、と言いたかったのに私は息をのんだまま吐き出すことが出来なかった。どうしてだか分からないけれど、食満の前だと私は自分の体を思い通りに扱うことが出来なくなる。ああ、このままではきっと私はそのうち

呼吸さえ忘れてしまう

だからお願い、そんな甘い表情で私を見ないで、名前を呼ばないで。