昨日僕はとある女の子に助けられた。
情けないことに昨日僕は崖から海へ落ちた。そのとき僕はたまたま崖近くの道を歩いていた。ごつごつとした岩場のほとんど人が通らない、かろうじて道だと分かる程度のものだったが崖からは距離があり、さすがの僕でも普通に歩いていて落ちるようなものではなかった。しかしたまたま小銭を落としてしまったのが運の尽きだった。小銭は崖際の方へ転がっていった。それでも僕は珍しく崖から小銭が落ちる前に拾うことが出来た。今日は運がいいなぁなんて考えていたのに急に足元が崩れた。灰色の海へ真っ逆さまだった。
春先の海は冷たかった。息を吸おうと顔を水面に出すと灰色の空が広がっているのが見えた。まだ雨は落ちてこないが、いつ降りだしてもおかしくないようなどんよりと重い雲だった。海は荒れているとまではいかなくても、波が高かった。投げ出されたわけではないのに崖の上がせり出したような形になっていて岸までの距離が遠く、もしかしたらもう駄目かもしれないななんてことが頭の端を過ぎった。縁起でもない。
しかし着実に着物は水を吸って重くなり、冷たい海水は僕の体力を奪っていった。手足を動かすけれども、中々岸は近づかない。それどころか遠のいているような気すらした。
口の中に水がどんどん流れこんできて飲み込んでしまう。とりあえず重くなる服を脱がなくては、海面から顔を出さなければ、息を吸わなければと思えば思うほど体が言うことを聞かなかった。
意識が遠ざかっていった。
目が覚めると僕は陸地にいた。背中にはごつごつとした岩の感触があった。体を起こすとずっしりと水を吸った服が体に張り付いて重かった。
体を起こしたら海に浮かんでいるものが見えてびっくりした。一瞬生首だと思ってぎょっとしたが、よく見てみれば海面から首だけを出している女の子だった。肩から下は水の下で見えなかったけれども、おそらく体と繋がっているはずだ。周りに他の人影はなかった。
『君が助けてくれたの?』
そう言うと彼女はこくりと頷いた。この女の子が溺れて力が抜けた重い僕を引っ張って岸まで泳いだということに驚いた。頬に張り付いた髪を払いのける手は細くて、にわかに信じられなかった。
『ありがとう』
と僕がお礼を言うと、その女の子はしばらくじっと僕の顔を見つめたあとに『あなたも私を食べるの?』とあどけない表情で言った。
それが僕の頭にこびりついて離れなかった。
そうして今日も僕は同じ場所に来ていた。昨日の女の子のことが気になったのだ。旅をしている途中だったが、どちらにしろ冷たい水に浸かったせいで体がだるく、昨日あのあと見つけた宿に大事をとってもう一泊泊まることにしたのだ。往来で倒れてしまってはそれこそ命に関わる。
さすがに同じ場所に来たら会えると安易には考えてはいなかった。しかしこの近くの漁村に住んでいる娘ならば偶然この辺を通りかかることもあるのではないかと思った。そうでなくても、この近くを歩きまわればその女の子の情報が何かしら手に入ると思ったのだ。
海も空も昨日と同じように灰色だった。ただ風は弱いらしく昨日よりは海が凪いでいた。まさかこんな何もないところに二日連続で来やしないだろう。あまり潮風に当たりすぎるのも体に悪い。諦めて帰ろう。そう思って踵を返したときだった。海からふたつの丸い瞳がこちらを見つめていた。
「うわあ!」
びっくりして尻もちをついてしまった。よく見るとそのふたつの瞳は昨日の少女のものだった。昨日の子が海面から首だけを出してこちらを見ていた。濡れた髪がぺたりと張り付く頬はあまりにも白くてこの世のものではないようだった。
「今日も来たの?」
彼女は鈴の鳴るような声で言った。一体この子はいくつなのだろう。年齢もよく分からない。そもそもこの子は一体何をしている子なのだろう。昨日も今日も海に潜っている。海女なのだろうか。こんなに天気がすぐれない日だというのに。
「もう一度きちんとお礼が言いたくて。昨日はありがとう」
そう言うと彼女はまた目を丸くした。何か僕はおかしなことを言っただろうか。次の言葉を待ってみたが彼女は中々口を開かなかった。じっと僕を見つめる彼女を僕は眺めていた。なんとなく目をそらしたら負けなような気がしてずっと見つめ合っていた。
「私を食べる?」
「えっと…、食べないよ?」
彼女が何を言っているか分からなかった。女の子をむしゃむしゃ食べるわけがないじゃないか。もしかして僕は鬼か何かと勘違いされているのだろうか。あいにく僕にはそのような趣味はない。
「永遠の命、ほしくないの?」
「永遠のいのち?」
永遠の命ということは死なないということだろうか。あまり想像が出来なかった。
「うーん、別にいらないかなぁ」
「どうして?あなた海に落ちたり転んだり、いくつ命があってもおかしくない気がするけれど」
「でも、今まで僕はそれでも死ななかったから大丈夫かなって」
「とても前向きね」
「ダメかな?」
僕は散々不運不運と言われているけれども、これまで死んだことはない。それは当然だけれども、死ぬほどの不運に見舞われたことはない。その分僕は幸運だと思う。それにそんなに長生きしなくてもいいかなとも思う。まぁ出来ればおじいちゃんになるまでは生きてみたいとは思う。でもそれ以上はいいかな。
「ううん、いいと思う。そういうの好きよ」
そう言って彼女はにっこりと微笑んだ。この二日間で初めて見た笑顔だった。口角を上げて目を細める表情はとても魅惑的だった。先程まで幼いと感じていた彼女が急に大人びて見えた。ドキドキと心臓が不規則に脈打つ。
「君は一体…?」
彼女が僕に向かって両手を伸ばす。細い腕、細い肩があらわになる。
僕はその美しさに魅了されてしまった。
人魚譚
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