ひとり自室でごろごろしていると少々大きな足音が遠くから聞こえてきた。くのたまよりも明らかに重い足音。先生だろうか、それとも男子生徒が無謀にも乗り込んできたのだろうか。この時間長屋にいる人はほとんどいないから大丈夫だろうけど随分と大胆である。しかし自分には関係ないだろうと横になって本を広げるとその足音は丁度私の部屋の前でぴたりと止まった。まさかと顔を上げると同時にガラリと障子の空く音がする。



見知った影。足音の主は鉢屋三郎くんだった。先生じゃなくて良かったとほっとしながらも、何故鉢屋くんがここへ?という疑問が残った。鉢屋くんとはそこそこ仲がいいと私は勝手に思っているのだけれど、こんな長屋にまで全然忍んでないけれどもやってくるなんて思ってもみなかった。

「おい、出掛けるぞ」
「え、鉢屋くんどうしたの?ちょっと」

二の腕の辺りを掴まれてグッと上に引かれる。私は背筋を伸ばして腕がちぎれないようにしたけれども、それでも間に合わなくて膝立ちになる。そのまま鉢屋くんは移動しようとするけれども、立ち上がることが出来なくて少しだけずるずると引きずられた。あまりにも強引で、本当に腕が取れちゃうとまでは言いすぎだけれどそれなりに腕が痛かった。少しだけ待ってほしい。

「いいから、ついてこい」

全く説明になっていないのだけれど、鉢屋くんがそういうからには何か理由があるのだと思う。今は理由を明かせない事情があるとか、説明を省くほど急いでいるとか。何かの任務だろうか。私は鉢屋くんと出かけるのが嫌なわけではなく、むしろ喜んでついて行きたいくらいだったから、理由なんて何だって構わないのだけれどさすがに突然すぎる。

「だって、服もこのままじゃ」

この忍び装束のまま町へ出ることなんて出来ない。鉢屋くんはしっかり私服に着替えていたけれども、私は学園の制服のままだった。これでは目立ちすぎるだろう。闇夜に紛れる任務ならともかく、鉢屋くんの口ぶりでは今から外へ出るようだった。目的は何か知らないけれど、何かの任務にしろ目的地へ辿り着くまでは私服でなければならないはずだ。

「ちっ、分かったよ。待ってやるから、支度出来たら門の前な」

そう言って鉢屋くんは私の二の腕を解放した。私のぷにぷにの二の腕は鉢屋くんの指が食い込んで少しだけずきずきしていた。左手をその握られていた部分に添えると何故か指先から甘い痺れが起こった。

私はひとつ大きく息を吐くと、立ち上がる。そして部屋の隅にある行李の中から着物を一着取り出した。

鉢屋くんとは同じ学年で、ちょっとしたことから顔見知りになった。そのきっかけというのが私の不注意からなのだけれど。先生に頼まれてクナイの詰まった箱を運んでいたのだけれどその途中でそれをぶちまけてしまったのだった。クナイがぎっしり詰まったそれを運ぶことは自慢ではないが非力な私にとってはかなりの重労働で、抱えなおそうとはずみをつけた拍子に軽く山になっていた一番上のクナイがずるりと崩れて。ああ、危ないとそれをどうにかしようとして体を傾けたのがいけなかった。傾いた箱からクナイが飛び出て、音を立てて床に落ちた。その多くは床に転がっているだけだったが数本は床に突き刺さっており、自分の足がそこになくて良かったと胸をなでおろした。

『おいおい、物騒だな』

そう言って声を掛けてくれたのが鉢屋くんだった。『足に刺さらなくて良かったな』そうしてしゃがんで一緒にクナイを拾ってくれた。それだけで十分にありがたかったのに『危なっかしいから運んでやる』と私がそれなりに苦労して抱えていたその箱をいとも簡単に持ち上げて歩き出した。どこへ持って行くのか知っているのかと尋ねれば『どうせ用具倉庫だろ』と言われた。まさにその通りだったので私は慌てて鉢屋くんのあとを追ったのだった。

それから廊下や食堂ですれ違うたびに挨拶を交わすようになった。それ以上は何もないけれども、私としては鉢屋くんとそれなりに仲が良いつもりだった。私に他に接点のある男子生徒がいないというだけかもしれないけれども。私としては仲が良いつもりだった。だったのだけれど、まさかこんな風に部屋にやってくることまでは予想していなかったから驚いてしまった。

するりと着物に袖を通しながら、出掛けるとは一体どこへだろうかと考えた。全く予想がつかなかった。学園長先生のお使いだろうか。先生の許可があったからあんな風に堂々と廊下を歩いてきたのかもしれない。優秀な鉢屋くんの相手に選ばれるなんて嬉しいけれども緊張するなぁ。そんなことを思いながら帯を締めた。

 *

十分急いで身支度をしたつもりだったのだけれど、そこは女の子なのでそれなりに時間が掛かってしまった。待ち合わせ場所である門まで行くと、鉢屋くんは少しだけ険しい表情で塀に寄りかかって私を待っていた。

「鉢屋くん!」
「遅い。小松田さんには先に出門表は出しておいたから」

そう言って鉢屋くんは行ってしまう。ちょっと小走りで駆けたらすぐに追いついたから本気で置いていく気はなかったのだなと少しだけ安心する。行く先が町というだけで具体的な場所は全く分からなかったので鉢屋くんの一歩後ろを歩く。

道中特に会話もなく、私はどうしたらいいのか分からなかったけれども何かまずいことがあれば鉢屋くんはきっと言うだろうから、きっとこのままで構わないのだろう。服装も町へ行くと言うから安直に町娘の格好をしてしまったけれども、それにもお咎めはなかったからきっとこれで正解。鉢屋くんから話しかけてこないということはもしかしたら話さない方が良いのかもしれないと思い、無理に話しかけなかった。

けれどもさすがに町に着いた時点で私は我慢しきれずに口を開いた。

「それで今日は一体何の任務なのかな?」

さすがにまったく説明がないのでは不安だ。今はまだ言う時期ではないのかもしれないけれども、それならそれで言ってほしいし、最低限今から私はどんなことをするべきなのかは知っておきたかった。

「……にぶい」

鉢屋くんがそう小さく呟くのが聞こえた。にぶい。知らないうちに鉢屋くんは何かを示す暗号を送っていたのだろうか。私はそれを見逃してしまったのかもしれない。それならばにぶいと言われても仕方ない。鉢屋くんは優秀だから私の実力にがっかりさせてしまったかもしれない。

鉢屋くんはそれっきり黙って歩いて行ってしまう。さっきまではかろうじて並んで歩けていたのに、鉢屋くんの歩みが少しだけ速くなってちょっとずつ距離が開いていく。

「は、はちやくん、待って」

装束と違って私服の着物は動きづらい。いつも動きやすい格好に慣れてしまっているから余計に。大股で歩けないし、下手な歩き方をして裾を汚してしまわないかどうか気になって人通りの多い町では彼の姿を見失ってしまいそうだった。

咄嗟に鉢屋くんの着物の袖を掴んだ。人の波に飲まれて鉢屋くんの姿が見えなくなってしまっても、この袖さえ離さなければ迷子にならないはずだ。そう思って安心していたのに、鉢屋くんは急に振り返ったかと思うと私の掴んでいた方の腕を振って、私の手は振り払われてしまった。

「掴むなら袖じゃなくて手にしろ」

そう言って鉢屋くんは私の手首を掴んで持ち上げたあと、がっしりと私の手のひらを包み込んだ。てっきり迷惑だと怒られてしまうのだと思っていたのにやさしく触れられてびっくりした。声も語調は強かったけれども、怒気は含まれていなかった。どちらかと言うと「仕方ないなぁ」っていう呆れの色。

今まで鉢屋くんに腕を掴まれたり手首を掴まれたりしたことはたくさんあったけれども、こんな風に手のひらを握られたことは初めてだった。まるで、手を繋ぐみたいな握られ方で、緊張して私の手のひらはじんわりと汗を掻いてきた。

「鉢屋くん、手…」
「何か?」

手のひらの汗が気持ち悪いから離してと言おうと思ったのに、有無を言わさぬような彼の目に私は結局何も言えないまま口を閉じてしまう。じわりじわりと湿っている私の手が鉢屋くんは気持ち悪くないのだろうか。

「袖を掴まれたんじゃあ着物が駄目になる。何か文句でも?」
「いえ、ありません」
「よろしい」

そう言った鉢屋くんの顔は明るい笑顔だった。もしかしたら私はからかわれたのかもしれなかった。袖を掴むなんて子どもみたいだと笑われたのかもしれない。

に迷子になられても困るからな」

繋がれた手を軽く引かれて私は鉢屋くんの隣に並ぶ。ふと鉢屋くんを見上げると彼も私を見ていたようで視線が交わった。でもそれは一瞬のことでパッと顔を背けられてしまった。迷惑を掛けすぎて嫌われてしまっただろうか。

「それと、今日は任務とかそういうんじゃねーから。気付け」

「え?」と聞き返すと鉢屋くんはまた歩みを速くしてずいずいと進んでいってしまう。けれども手が繋がれているから置いていかれはしない。ただグイグイと手が引っ張られて「鉢屋くん、速いよ」と言えばすぐに歩みがゆるやかになった。歩くのに余裕が出来て、「鉢屋くん」ともう一度呼びかければ「何だよ」というぶっきら棒な返事だけが返ってきた。

「これからどこへ行くの?」
「どこがいい?」

さすがに鈍い私だって分かる。鉢屋くんの耳が真っ赤だったのは多分そういうことなんだと思う。

掠める指先