朝起きて一番に好きな人の顔を見ておはようを言う。

女の子だったら誰でも憧れることだと思う。

そういう最初はかわいらしい望みだった。けれども私はそれを実行してみることにしたのだ。とはいえ、私に恋仲の人物はいない。私の場合『好きな人』というのは必然的に片恋の相手になる。片思いの相手が朝起きて私の枕元に座っているはずがない。そのため私が朝一番に好きな人に会うためには自分から彼に会いに行かなければならなかった。

食堂までの道のりは目を瞑ってでも分かる。さすがに目を閉じたままでの食事は勘弁したいので、食堂で会えなければそれまでだという気持ちで試してみることにした。

朝目が覚めると目を閉じたまま身支度をしてそのまま部屋を出る。朝日が瞼を透かして少しだけ眩しい。

一番にというのはわざわざ目を瞑って会いに行くという意味ではないことは重々承知している。こんなものは一種のおふざけだ。分かってはいるけれども、一度やってみるのもいいかもしれないと思ったのだ。ただ、毎日の単調な日常に変化を付けたかっただけなのかもしれない。

毎朝通いなれた食堂までの道のりは目を瞑ってでも頭の中に思い描くことが出来た。右手を壁に沿わせながら次の角は右、その次は左、と曲がっていく。食堂まであと半分といったところで角を右に曲がろうとすると、ドンと何かにぶつかった。予想しなかった衝撃に私は勢い余ってしりもちをついてしまった。

「わ!」

ぶつかったものから声がしたので、どうやら私が体当たりしてしまったのは人だったようだ。目を瞑って歩いていたら誰かにぶつかるかもしれないと考えなかった自分の思慮の浅さに苦笑した。一年生は廊下をドタドタ歩くが、上級生ともなれば普段から気配を消して歩いていることが多いのだから目を瞑って歩けば誰かにぶつかるかもしれないなんてことは用意に想像出来たはずのことだったのに。

「ごめん、大丈夫?」

聞こえてきた声に私は驚いて目を開けた。今日初めて開けた目はなかなか焦点が合わなくて瞬きを繰り返した。何度瞬きをしてみてもその声も姿も想像した通りの人物で、私はまだ夢を見ているのではないかと自分を疑った。

「雷蔵だ……」
「目瞑って歩いたりしてどうしたの?もしかして怪我とか」

私が驚いて口を開けたままにしているうちに、「腫れてはいないみたいだね」と雷蔵の指が瞼に触れるものだからさらに心臓がバクバクと大きな音を立てた。

「本当に、何でもないの。ただ眠くて」

適当な言い訳を口にしながら、私は後悔していた。なんて馬鹿なことをしてしまったのだろう。やるのならばもっとスマートにこなすべきだったのだ。こんな行き当たりばったりで雷蔵に心配をさせて何をしたかったのか。本当のことを言うとこんな風に上手くいくだなんて思っていなかった。どうせ何事も起きないまま食堂までたどり着いてしまうだろうと思っていたのだ。普段でさえこんな風に偶然廊下で会うことなんて稀なのに、会いたいと思っていたときにその人物が目の前に都合よく現れるなんて誰が予想するだろう。

ぱちぱちと瞬きを繰り返して見詰める私を不審に思ったのか、彼は「本当に大丈夫?」と言ってさらに私の顔を覗き込んできた。近づく距離に私はさらに平常心を失ってしまう。

「一応確認するけど、本物の雷蔵よね?」
「うん、僕は不破雷蔵だよ」
「ならいいんだけど」

彼は正真正銘の不破雷蔵だし、ぶつかったときに打った尻が痛いからまだ夢の中にいるというわけでもないらしい。立ち上がって服をはたいてみたが、お尻を打った以外に異常はなさそうだった。私がなんだか楽しくなってしまってつい口元が緩んでしまうのを隠そうともしないのを見て雷蔵は少し不思議そうな表情をしていた。多分彼には何故私がこんなに清々しい気持ちなのか分からないだろう。

「良い朝ね」

そう私が言うと彼は一拍置いてから「そうだね」と笑顔で答えてくれる。そんなやり取りさえも私の心を晴れやかにさせた。

「雷蔵はもう朝ごはん食べた?」
「うん、これから一度部屋に戻ってから教室にいくつもり」
「そっか。私はこれから朝ごはん」

そう言ったきり会話が途切れてしまった。考えなしに行動しているとこういうとき困るのだ。とにかく何か喋らなくてはと口を開くと「あの!」と想像以上に大きな声が出てしまった。

「あの、雷蔵、おはよう」
「うん、おはよう」

前髪を触りながら私が最初の目的を果たすために朝の挨拶をすれば、彼はにっこりと微笑んで同じように返してくれる。彼が挨拶を返してくれるだけで胸がいっぱいになる。毎日こうして朝一番におはようを言えたらもっとしあわせだろう。しあわせすぎて幸福の貯金が出来てしまいそうだと思った。

しばらくそうしてもじもじしている私に彼はにこにこと笑いながら付き合ってくれたけれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。私が「じゃあね」と別れの挨拶をすると雷蔵も「それじゃあ」と言い私の横を通って長屋へ戻っていった。私は彼の姿がすっかり見えなくなるまで見送ってから、今度はしっかり目を開いたまま食堂へ向かった。

雲ひとつない快晴が見えたがもうすっかり目が慣れていて眩しく感じることはなかった。

2011.12.09