カタリ。図書室の前を通ると中から物音が聞こえた。閉館時間はとっくに過ぎているはずだ。一体誰がいるのだろう、もしかして今下級生の間で噂になっている七不思議とやらだろうか。そう考え、私は思わず足を止めてしまった。もしこの音を下級生が聞いたのならすぐに七不思議のひとつとして広まってしまうだろう。そうなったら最近図書委員の努力によって増加していた図書室の利用者数が減ってしまう。きっと誰かが窓を開けっ放しにした風の音か何かだろう。そう思って私は図書室の戸を薄く開けた。

本棚の影には何もいなかったけれども、代わりに貸出カウンターに人影があったので一瞬びくりと体をこわばらせる。でもそれもほんの少しの時間のことで、すぐにそれが見慣れた人影であることに気が付いた。七不思議でもなんでもない。

「まだいたの?」と声を掛けると雷蔵は顔を上げて「ああか」と言った。

その顔はどこか疲れているように見えなくもない。閉館時間はもうとっくに過ぎていて、大抵の生徒は食堂で夕食を取っている時間だ。陽もすっかり傾いていて、私の影も随分と長い。窓から差し込む橙色の光は細く、彼の手元までは照らしていない。火気厳禁の図書室では明かりを点けることはできないが、それにしたってこんな暗い部屋で作業しなくても良いだろうと思う。図書室で明かりを点けることができないのならばせめて自室でやれば良いのに。

「夕食、食べないの?」
「この仕事が終わったら食べるよ」
「終わるの?このままだと食いっぱぐれるよ」
「そしたらおばちゃんにおにぎりでも握ってもらうから大丈夫」
「そのお米さえ残ってないかも」
「その時はその時さ」

私と喋りながらも彼は作業の手を止めない。一度ちらりと見たきりもう私の顔を見もしないし、真剣な表情で手元のカードを確認しては帳簿に何やら書き込んでいる。「頑張るね」と言えばどこか怒ったような声で「そんなことはない」と返ってきた。やっぱり今日の雷蔵は変だ。

多分雷蔵は何か考え事をしているのだろうなと思う。雷蔵は一度悩み始めてしまうとそればっかりに捕らわれてしまう傾向がある。今回はいつも悩んでいるのとは少し様子が違うように見えたが、ひとつの物事に捕らわれているのは同じように思える。

「何か困ってるなら手伝おうか?」
「必要ない」

雷蔵らしくないほどにはっきりとした声で拒絶されてしまった。図書委員の仕事が山積みになってしまっているのならばふたりでやって早く終わらせようと思ったのだが、余計なお節介だったのかもしれない。出過ぎた真似をしたと反省していると「あ、いや…」とそこには見慣れた困ったような表情をした雷蔵がいた。

「ごめん、君に当たるつもりはなかったんだ」
「ううん、忙しいときに話しかけてこちらこそごめんね」

こちらが謝るとさらに眉を下げる彼はもうすっかりいつも通りだった。集中を途切れさせてしまったのは申し訳ないが、さっきのは随分と雷蔵らしくなかった。彼は本当に集中しているときであれば人の声は聞こえない。それに出来れば食事はきちんと取ってほしかった。

彼は大きく溜め息を吐いて「だめだなぁ」と呟いた。頭をガシガシと掻くのでふわふわの髪がいつも以上に広がる。そうして彼はそのまま頭を抱えて机に突っ伏した。

「僕はやはりどこか後輩であることに甘えてたのかも」

ぽつりと雷蔵が喋りだしたので私は慌てて姿勢を正し、口を閉じ、耳を傾けた。私が雷蔵に自分の話をすることはあっても雷蔵がこうして自分自身の話をするのは珍しいことだなと気が付いた。彼が私に話すのは友人の話が多かった。

「雷蔵は十分仕事していると思うけど」
「でも、兵助や八左ヱ門はずっとこうして委員長代理を務めてきたんだろう?」

図書委員の仕事をこんな時間までやっているくらいだから悩み事の種は委員会活動のことだろうと思ってはいたけれども、こう言った返しがくるとは予想していなかった。せいぜい仕事で失敗してしまったのを思い悩んでいるのだと思ったのだ。まさか他人と比べて引け目を感じているとは。あの優等生の雷蔵が、だ。

現在図書委員会には五年生と六年生が揃っている。五年生が委員長代理を務める委員会もある中で、両学年揃っている図書委員会はとても貴重な存在だ。恵まれているとも言えるかもしれない。

「中在家先輩は雷蔵のこときちんと頼ってると思う」

中在家先輩がいたって雷蔵はきちんと後輩をまとめ上げている。寡黙な中在家先輩の代わりに指示を出すのは雷蔵の役目だ。図書委員の下級生は雷蔵のこと慕ってるし、図書委員会には六年生がいるんだからその間は甘えたっていいはずだ。それに下級生をまとめることも大変だけれど、六年生を支える仕事だって決して楽ではない。

「雷蔵はきちんと頑張ってる。でも必要以上に頑張りすぎることはない」

だからご飯食べに行こう?それくらいの休憩は許されるはずだともう一度夕食に誘うと私の顔をじっと見ていた彼が不意に視線を下げた。

「君には敵わないなぁ」

そう言ってへにゃりと柔らかい笑みを浮かべる。そうして筆を置いて立ち上がる。彼の髪が夕日みたいにきらきらと輝いているように見えた。窓の外はもうほとんどが淡い藤色に染まっていた。

「夕飯、食べに行こう。もまだだろう?待たせてごめんね」

雷蔵が私の手を取って立ち上がらせてくれる。先程とは全く表情が違うからきっと吹っ切れたのだろう。雷蔵の役に立てたのなら良かったなぁと思いながら彼の手をぎゅうぎゅうと握った。

2011.10.29