玄関でしゃがんで靴を履いていた雷蔵がくるりと振り返ると少しだけ眉が下がった笑顔で私を見た。

「じゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃい。頑張って」

雷蔵の家に来ていたのだけれど、当の彼は午後に一コマだけ授業があるらしく大学に行かねばならなかった。一コマだけなら往復の時間を考えても2時間ちょっとだ。そう長い時間ではない。私はその間雷蔵が先日新しく買ったという本を読んで待っていることにした。あまり分厚くないその文庫本は雷蔵が大学へ行って帰ってくる2時間ほどの間に読みきれそうだった。雷蔵は「飲み物も好きに飲んでいいから」と言い残して慌てて出て行った。ちょっとゆっくりしすぎたらしい。私はそんな雷蔵の後ろ姿を玄関でひらひらと手を振りながら見送った。

バタンという音とともに目の前の扉が閉まると私は小さくため息を吐くと、部屋の中に戻った。彼の言葉に甘えて冷蔵庫の中にあるお茶をコップに注ぐ。このコップも雷蔵が私にプレゼントしてくれてここに置いてあるものだった。小さなしあわせを感じながらそのコップを机の上に置いて、自分はベッドに寄りかかって例の文庫本を広げる。先に読んだ雷蔵が面白かったと言っていたから少し期待してページを捲った。

 *

私が雨の音に気付いたときにはもうザァザァと雨は激しく窓を叩いていた。音がすると思って窓を振り返ると外は灰色の雲で暗くなっていた。窓の外を見ると土砂降りの雨で、道行く人は皆傘を差していた。

「うっわぁ、すごい雨…」

確か雷蔵傘持っていかなかったよね…?

玄関で見送ったとき、雷蔵の手には鞄ひとつだったはずだ。雷蔵の鞄の中に折りたたみ傘が入ってるとは思えない。携帯を探して時刻を見ると、まだ講義の終わるまで10分あった。傘を持って迎えに行ってあげようと思って、手にしていた本を置いて立ち上がる。雷蔵のことだから、雨が降ってたら購買で傘を買うか、止むまで待つかで悩むだろうからその間に大学に着けるだろう。まぁ一応歩きながらメールを入れよう。自分の傘は持ってきていないから帰りはふたりでひとつの傘に入るか、途中のコンビニでもう一本傘を買うべきか。この土砂降りでひとつの傘では濡れてしまうだろうからコンビニに寄るのが妥当かなどと考えながらパンプスにぐいぐいと足を突っ込んでいるとガチャリと音がして目の前が開けた。

「ただいまーってあれ、こんなところで何してるの?」

目の前に雷蔵が立っていた。雷蔵は私が玄関にいることにびっくりしたような表情を見せた。けれども、雷蔵よりも私の方が数倍びっくりした。

「雷蔵、びしょ濡れ!」

この時期ふわふわと広がりがちな雷蔵の髪の毛はぺったり顔に張り付いてるし、シャツもすっかり水を吸っているし、ズボンの裾からはポタポタと滴が垂れている。傘を差したとは到底思えない濡れ方だ。

「今迎えに行こうと思ってたのに、どうして」
「ああ、講義が早く終わってね」

早く終わったにしてもこんな土砂降りの中濡れて帰ってくるなんて思ってもみなかった。これだけの大雨ならこのあと急ぐ用事がなければ濡れて帰ろうなどとは思わないだろう。大学では時間を潰すのに困るということもないはずなのに。

が待ってるから早く帰ろうと思って。でも迎えに来てくれるんだったら待ってても良かったな」
「風邪引いたらどうするの!とりあえず早くお風呂入って」

玄関から急いで退いて雷蔵を入れる。とりあえずタオルをと思って勝手に拝借して雷蔵に押し付ける。当の雷蔵は全く焦った様子もなく「すぐシャワー浴びちゃうからタオルはいらないよ」と何故か私にタオルを返そうとするのでその背中をぐいぐい押して風呂場に押し込んだ。

「着替えは用意するから早く入って!」

雷蔵は覚悟を決めて走ってきたせいか落ち着いていて、慌てている私がばかみたいだ。そう思うけれど、雷蔵が私のためにびしょ濡れになって、その上風邪まで引いてしまったのではたまらない。今は夏で寒くもないからすぐに風邪を引くということはないだろうけど、濡れっ放しは良くないはずだ。仕方ないなぁという顔で肩越しに振り返った雷蔵の表情は見なかったことにしてそのまま浴室の扉を閉める。しばらくしたらすぐにシャワーの音が聞こえてきたので、私は安心する。

用意すると言った以上私が雷蔵の着替えを浴室へ持っていかなければならない。失礼と思いながらタンスの引き出しを開けて適当に雷蔵が部屋着にしているっぽいTシャツとジャージを引っ張り出す。以前こんなのを着てくつろいでいたような気がする。

「あれ?」

あちこちと引き出しを開けてから私は首をひねる。あるものが見つからないのだ。雷蔵のことだから畳んだあと適当に入れたんじゃないかと思って隅々まで確認してみたけれど見つからない。仕方なしに私は先にTシャツとジャージを持って風呂場へ向かった。浴室からはまだジャージャーとシャワーの音が響いている。

「らいぞー!あの」

私がそう声をかけると、シャワーの音が止まって中から返事が返ってくる。言いにくいことのときばかり雷蔵は私の声に気付くような気がする。もちろんそんなの気のせいで、雷蔵はいつだって私の声をちゃんと拾ってくれるのだけれど。

「何?」
「あのさ、替えのパンツがないんだけど…」
「えー、底尽きちゃった?」

私が聞きにくいことを言ったのにも関わらず雷蔵はのんきな声を出した。底尽きちゃったってなんだ!まさかと思って洗濯機の中を開けて見ると中に何枚ものパンツが放りこまれていた。私は反射的に洗剤を手に取って入れるとそのまま勢いよくバタンと蓋を閉めてスタートボタンを押した。

「何で洗濯してないの!」
「天気が良い日にやろうと思ってすっかり忘れてて」

まさかまさかと思って雷蔵の部屋のクローゼットを開けると脱ぎ捨てられた服がどっさりと出てきた。私が来るからと思って、とりあえずで隠したのだろう。もう洗濯機を回してしまったからこれは次に洗おうと思って脱力しながらクローゼットの戸を閉めた。大雑把な雷蔵らしいと言えば雷蔵らしい。

「それにパンツだけ元々枚数少なかったから買わなきゃと思ってたんだよね」

そういう問題じゃないと思いながら風呂場に戻ると、丁度雷蔵がドアを開けたところだったので私はぎゃあと声を上げて再び雷蔵を浴室に押し込んだ。

「なんで出てくるの!」

パンツのない雷蔵は腰にタオル一枚巻いたままで出てこようとしていた。せっかく浴室に戻したというのに雷蔵は出てこようとドアノブをひねるので私は体を使ってドアを押さえなくてはならなかった。

「夏だし洗濯したのが乾くまでこの格好でも大丈夫だよ」
「私が大丈夫じゃないのでやめてください!」

そんな格好の雷蔵と一緒にいたくない。雷蔵はまったくそういうの気にしなさそうだけれど、私が目のやり場に困ってしまう。雷蔵の体は適度に筋肉が付いていてさすが雷蔵かっこいいなぁ…、じゃなくって!

「コンビニ!コンビニでパンツ買ってくるから!雷蔵はそこで待ってて!」

晴れた日ならともかく、こんな雨では湿度が高くパンツ一枚乾くのだって時間がかかるだろう。雷蔵がドアを開けることを諦めたのを確認してから素早く財布と携帯だけ掴んで、今度こそパンプスに足を押しこんだ。私は雷蔵のビニール傘を拝借すると玄関の扉を開けて近所のコンビニまで駆け出す。雨は先程より随分と弱まっていた。

 *

私がコンビニへ行って帰ってくると、そこで待っていてと言ったにも関わらず雷蔵は部屋でテレビを見て笑っていた。もちろん腰にタオル一枚巻いたままの格好で。私は驚きのあまり言葉が出てこなくて口をぱくぱくさせていると、私が帰ってきた音に気付いたのだろうか雷蔵が振り返った。

「あ、おかえり。買うの恥ずかしくなかった?」

なんて平然と言うものだから私は買ってきたパンツを袋ごと雷蔵の顔目がけて思い切り投げつけた。


2011.06.24