最近、恋人の様子がおかしい。私は台所で夕飯を作りながらそんなことを考えていた。

雷蔵が大盛りでカレーを食べたいと言うから今夜はカレーだ。雷蔵と私のふたり分を作ればいいのだけれど、雷蔵はおかわりをするかもしれないし、一晩寝かせたカレーもおいしいから結局鍋いっぱいにカレーを作ってしまう。

「雷蔵、もう夕飯出来るよー」

いつもは匂いを嗅ぎつけて手伝いに来てくれるのに今日はそれがなかった。やっぱりおかしいと思って様子を見に行くと雷蔵はソファに座ったまま寝ていた。

「また寝てるの?」

座ったままということはきっといつものように悩み疲れて寝てしまったのだろう。最近こんなことが多い。雷蔵が悩んでいるところを見ることが多いし、理由を聞いてもはぐらかされて答えてくれないし、雷蔵が出かけると言うからついていってもいいかと軽い気持ちで聞いたらやんわり断られるし、私が一日友達と遊びに行くと言えばどことなく嬉しそうな表情をして見送るし、なんとなく私に隠し事をしているみたいだった。もしかしたら、雷蔵はもう私に愛想を尽かしてしまったのかもしれない。表面上はいつもと変わらず優しいし、私を大切にしてくれているけれども、最近の雷蔵は明らかにおかしい。雷蔵に限ってそんなことはないと信じたいけれども、もしかしたら浮気をしているんじゃないかとか。

彼の親友である鉢屋三郎はこの間大切に大切にしていた彼女にプロポーズしたと聞いた。三郎がわざわざ報告に来てくれたのだ。私たちふたりは揃ってそれを聞いて『おめでとう』なんて言っていたけれども、私は内心落ち着かなかった。雷蔵と私もそれなりに長い年月付き合っているし、年齢的にも結婚を考えてもおかしくない年ではある。現に三郎はプロポーズしたし、他にも式を挙げている子だっている。三郎の報告を雷蔵がどんな気持ちで聞いていたかは分からないけれども、私は少し焦っていたのだ。

「ご飯出来たから起きてよ」
「ん、ああ、ごめん」

目を擦りながら返事をする彼を見ていたらなんだか急に泣きたくなってしまった。きっと情緒不安定というやつだ。泣かないよう堪えている変な顔を見られたくなくて慌てて後ろを向く。

「言い忘れてたけど、今日友達と飲む約束してたんだった。行ってくる」
「そっか。いってらっしゃい、楽しんできてね」

そう言って雷蔵はにっこりと笑って手を振ってくれた。雷蔵は怒らないし、深く突っ込んでこない。私は引き止められたかったのだろうか。言ってしまった手前出掛けないわけにもいかないので、私はそのまま鞄を手に取ると、パンプスに足を押し込んだ。

本当は約束なんてありはしない。ひとりでアパートの階段を降りているとどんどん惨めな気持ちになってきた。カレーも沢山作ったのに、無駄になってしまうかもしれない。雷蔵なら全部ちゃんと食べてくれるだろうか。

約束がないのならば今から作ればいいや。そう考えて私は携帯を開いた。





「そういうことで呼び出すのはやめろ」

私がひと通り話し終わると、それまで黙って聞いていた三郎が不機嫌そうな声で言った。

「死にそうな声出すから何があったのかと思って来てみれば。禄でもないことで呼び出すな」
「私だって特別三郎が良かったわけじゃないもん」

あのあと友人にあちこち電話を掛けてみたけれども誰も捕まらなかったのだ。電話が繋がらなかったり、用事が入っていたり。愚痴を言える友達なんて誰でもいい訳じゃないからすぐに手持ちが尽きた。この際男友達でもいいやと思って久々知や竹谷や勘ちゃんにも電話を掛けてみたけれども見事に空振りだった。最後の頼みとしてかけたのがこの鉢屋三郎だったのだ。

三郎は人の悩みだとか愚痴だと聞くのだけは上手いからそこに不満はないのだけれど、いかんせん雷蔵と近すぎる。うっかり雷蔵本人に情報を流されたりしたら困る。口止めはきちんとしておく必要があるし、弱みを握られすぎないようにしなくてはならない。

「自分から言えば?」

三郎はつまみを口に運びながら何でもないことのように言う。私だってそれを全く考えなかったわけではない。そんなに結婚したいのだったら私から言ったっていいのだ。いわゆる逆プロポーズというやつである。でも、私だって一応女なので、プロポーズにはそれなりの夢を持っているから本当は雷蔵から言ってほしい。それに、雷蔵の心が分からないまま言うのはこわい。もしも、雷蔵が本当に浮気していたらどうしよう。雷蔵はやさしくてかっこいいから会社でもモテるだろうし。私の知らないところで若くて胸の大きい新入社員の女の子に迫られてたらどうしよう。雷蔵はおっぱいが好きだからそっちに流れていってしまうかもしれない。そもそも雷蔵が私みたいなのと付き合っていたこと自体がおかしかったのかもしれない。雷蔵はそんな最低な人間じゃないって分かっているのに悪い想像は止まらない。雷蔵を疑うようなことを考える自分にだんだん嫌気が差してくる。

「お酒もう一杯」
「もうここらでやめとけ」
「いーやーだー!」

制止を振りきって店員さんを呼ぶと、三郎は諦めたように大きなため息を吐いて座りなおした。そして付き合いきれんと言わんばかりに携帯をいじりだす。やってきた店員さんにカクテルを注文して、もう一度三郎の方を見ると今度は誰かに電話を掛けていた。そんなに私の愚痴を聞くのが嫌になったか。自分でも面倒くさい酔っ払いになっている自覚はある。だからって目の前で電話しなくたっていいじゃないか。彼女にでも電話を掛けているのだろうか。いや、もう婚約者か。悪い今日は遅くなる、みたいな。ざわざわと周りの喧騒がうるさくて三郎の声までは聞き取れない。

「らいぞーは私のこといやになっちゃったのかなぁ」

そう言うと三郎は電話をしながらちらとこちらを見た。その顔が何を考えているのかまでは読み取れない。三郎は私を見るだけで何も言わなかった。別に慰めてほしいわけでもなかったから構わないのだけれど。

「雷蔵とずっと一緒にいたいよぉ」

三郎の顔が霞んで見える。上瞼が何か乗せられてるみたいに、段々重くなって下がってくる。頭がふわふわと気持ちいいのに任せて目を閉じると、瞳に膜張っていたものが目尻を通って流れた。





なんだか体が揺れて心地良かった。頭の中は相変わらずふわふわとしている。きっと夢の中なのだ。しあわせの匂いがした。

「らいぞ」

大好きな人の名前を小さく声に出すと、「」と返事があったような気がした。ああ、しあわせだなぁ。ぎゅうと抱きしめる腕に力を込めると、あったかさも匂いも増して、もっとしあわせな気分になった。ずっとこうしていたい。

「それ以上は首が絞まるよ」

その声で私は目が覚めた。慌てて体を起こすと「落ちるよ」と雷蔵の声が下からした。見えるのは雷蔵の後頭部と背中で、私はようやく彼に背負われていることに気が付いたのだった。

「しっかり掴まってないと落ちるからね」

そう言われたのをいいことに私は再び雷蔵の首にぎゅっと腕を回した。居酒屋でテーブルに突っ伏したあとの記憶がない。三郎の姿もないし、周りの景色は家の近くだ。

「どうして、雷蔵が…」
「三郎から電話があった。を迎えに来いって」

三郎め、余計なことを。だから三郎と飲むのは嫌だったのだ。

「飲み過ぎはよくないよ」

彼はそれしか言わなかった。黙ってアパートまでの道のりを歩く。街灯の下を通り過ぎるたびに、雷蔵が私を背負った大きな影がアスファルトに映った。雷蔵にも、呆れられてしまったのだろうか。嘘吐いたこともばれただろうし、酔っ払って寝てしまうまで飲んで、雷蔵を迎えに来させて。迷惑しかかけていない。背負われていると雷蔵の表情が読めない。代わりに、彼にも私の表情が見えないのをいいことに私は雷蔵の背中に顔を埋めた。

カンカンと階段を上る音がして、重いだろうからいい加減降りた方がいいなと思ったけれど、声が出なかった。

「着いたよ。降りて」

本音を言うともっと雷蔵にくっついていたかったから降りたくなかったのだけれど、重いだろうし、これ以上わがままを言って嫌われたくなかったから素直に降りた。玄関の一段上がったところに座らされる。放してしまったらお説教が始まるような気がして首に回した手だけは残しておいたら、両腕を掴まれてそれも降ろされてしまった。腕を回されたままでは雷蔵もろくに動けないから仕方のないことだと頭では分かっていたけれども。

「はい、靴脱いで」

そう言いつつ雷蔵が靴を脱がしてくれる。玄関の土間に膝を付いて、ズボンが汚れるよと思ったけれど、当の本人は全く気にしていないようだった。そっとやさしい手つきで私の足首を掴んで持ち上げてはパンプスを脱がす。自分の膝は汚れたって気にしないくせに、私の足の裏は汚れないように雷蔵の腿の上に乗せられる。雷蔵はとてもやさしい。

、ごめんね」

雷蔵が突然謝るので私はびっくりして顔を上げた。私が謝らなければならないのに、どうして彼が謝るのだろう。

が僕との将来のことで不安になってること気がつかなかった」
「えっ、なんで知って」
「電話の向こうからの声が聞こえてた」

最悪だ。あのときの誰に電話を掛けているのかと思ったらよりにもよって雷蔵だったのだ。言わないでって言ったのに。どうせあとで責めても自分は何も言っていないと言い張るのだろう。私の大きな声が雷蔵に聞こえてしまっただけだと。もう本当に自分は何をやっているのだろう。結局全部ばれてしまってるし、穴があったら入りたい。

「もっとちゃんとしたところで言うつもりだったんだけど」

そう言って雷蔵は私の手を取ってぎゅうと握りしめた。狭い玄関に座り直す。ああ、また雷蔵のズボンが汚れてしまう。

「僕と結婚してください」

まだ酔っているのかと思った。夢なんじゃないかと。そうでなければ聞き間違いかもしれない。

「わたし、と…?」
「そうだよ」

他に誰がいるの、と雷蔵は笑う。私に言わせれば雷蔵は選び放題だ。一応雷蔵の彼女は私だけれども、でもどうしてこのタイミングで。とそこまで考えて三郎にこぼしていたあの言葉が電話越しに聞かれてしまっていたのだと理解した。

「返事は?」

雷蔵が困ったような哀願するようなやさしい表情で私を覗き込む。早くちゃんと返事をしなきゃと思うのに、脳みそがパンクしたみたいに何も考えられなくなって、お酒でふわふわした気分もどこかへ行ってしまって、うれしいよと震えた小さな声しか出なかった。

「すごく嬉しい」

私が気持ちを言葉にした途端、雷蔵に引き寄せられた。腕の中に閉じ込められて、何も見えなくなる。

「良かった」

雷蔵の心底安心したような声が上から降ってくる。雷蔵のあたたかさを感じて、やっと現実感がわいてくる。じわじわと心の中にあたたかいものが広がって、体の力が抜けていく。そのまま体重を預けると雷蔵はちゃんと支えてくれる。

「いつどこでどうやってプロポーズしようとか考えたり、お店に指輪を見に行ったりしてたんだけど結局全部無駄だったよ」

ちゃんと言えたからもうそんなのどうでもいいんだけどね、と言って彼は苦笑する。全部私の勘違いだった。ひとりで勝手に傷ついて、勝手に泣いたりしてバカみたいだ。雷蔵はこんなにも私のこと考えていてくれたのに。そのことについて考えると嬉しくって雷蔵の首に腕を回して抱きつくと彼が楽しそうに笑う声が聞こえた。

「ずっと一緒にいよう」

私は今、世界で一番しあわせに違いない。


永遠を誓う