授業がいつもより少しだけ早く終わる日、私と私の友人は共有している部屋でぐだぐだするのが習慣となっていた。お菓子を食べながらお茶を読み、ごろごろと床に転がりながら本を読む。そんないつもと変わらない午後だった。「ねぇ、ちゃん」とお茶の時間を楽しんでいた友人が呼んだ。私は饅頭に伸ばしかけていた手を止め、寝そべって読んでいた本から少しだけ視線を上げた。ふたつの丸くて大きな目がこちらを見ていた。

「五年生の不破雷蔵くんってちゃんのこと好きらしいよ」

彼女は口の端にまんじゅうのあんこを付けたまま言った。にこにこと楽しそうな笑顔である。私はつとめて冷静な声で「へぇ、そうなんだ」と返した。

「あれ、驚かないね」
「少しはびっくりしてるよ。そんな噂話が出回ってることに」

くのたまは噂話が好きだ。常に誰それが誰々のことを好いているらしいだとか誰々がついに想い人に告白しただとか誰それが豪快に男を振ってやっただとか、そういう話は尽きない。けれどもその噂話というのは半分は本当のことだが残りの半分は嘘だ。噂というものは人々に伝わっていくうちに変化してしまうものだし、くのたまの場合情報は常に操作されるものだからである。つまり誰かの都合の良い噂話がわざと流されるのだ。だからこういう噂話は話半分に聞かなければならない。けれども私がそういう恋愛の噂話の的にされることはなかったからそのことには驚いた。

ちゃん嬉しくないの?」

友人は私の目を覗き込むようにして首を傾けた。嬉しいという気持ちよりもどうしてという気持ちが先に立つ。私は不破雷蔵とは委員会も違うし、学年も違うからそうそう接点などない。低学年のころはひとつ年下のにんたまにちょっかいを出してはいたが、それも上級生となった今では滅多にないことだった。強いていえば、同学年で図書委員長である中在家長次と多少の交流があるからその繋がりくらいか。私が図書室に行けば声をかけてくれる。彼は愛想よく私に挨拶してくれたが、私の方はいつも短く返事を返しただけだった。特に親しいというわけでもないうえに、私の彼に対する態度はお世辞にも愛想のいいと言えるものではない。それなのに彼が私を好いているのだとしたら本当に驚くしかない。

「私は不破くんとちゃんいいと思うけどなぁ」
「年下が?」
ちゃん年上がいいって言ってたけど私は不破くんにも目を向けてほしいな」

確かに不破はなんだか年下の彼氏の理想みたいなところはある。仕草とか結構かわいいし、迷い癖があったりして支えてあげたいと思わせるようなところがある。友人の言いたいのはそういう事だろう。

ちゃんってちょっと意地っ張りなところがあるでしょう?不破くんならそういうとこ上手くほぐしてくれそうだなって」

私はプライドが高い。私は人に頼ることも甘えることも苦手だ。意地っ張りでかわいくない性格だから男子とはすぐ喧嘩になる。かわいくないなと言われた数はもう数えきれないほどあるし、きちんと自覚している。こんなんだから噂の端にも上ることがなかったのだ。当然である。年上の男は女に甘えてもらいたがるし、頼られたがる傾向にある。逆に私はどちらかと言うと友達や後輩に頼られたりするのが好きだからかわいい年下の方が逆に合っているかもしれないと友人が考えるのは自然なことではあった。

「ダメかなぁ?」

ダメというわけではないけれども、不破をそういう目で見たことはなかった。確かに不破は恋人として申し分ない人間だろうと思う。私なんかにはもったいないくらいの人物だと思う。ダメとかダメじゃないとかそういう答えは出来ないことをどうやって伝えようか考えている間、彼女はもぐもぐと饅頭を口に運び、お茶の入った湯のみを傾けた。こういうとき相手の発言をきちんと待てる彼女はとてもやさしい人なのだと思う。私には出来ない。

「あ、お茶なくなっちゃった。食堂までもらって来るね」
「私が行くよ」
「じゃあ一緒に行こう」

そう言って彼女はむくりと起き上がった。こういうときの行動は早い。立ち上がって服のしわを伸ばすと私に手を伸ばした。私もすでに中腰になっていたが素直にその手を取って立ち上がった。

「ダメっていうか考えたことなかったな」
「考えてみたらどうだった?」
「まだよく分かんないけど年下だったら寛大になれる気がする。私は今まで私に出来ることは相手にも出来ていないと嫌と思ってしまっていたから」

同じ年、もしくは年上なら私が出来ることくらい出来て当たり前だと思ってしまう。私に頼られたいのならこれくらい出来てよ、と。それなのに相手が完璧だと悔しいと思ってしまうからいけない。私の性格を表す言葉に負けず嫌いも追加しなくてはならない。我ながら随分と面倒くさい性格をしていると思う。

「もしも、もしもだよ」

そう言いかけて彼女は口をつぐんだ。どうしたのだろうと彼女の顔を見ると目線が廊下の端へ向いている。私も続いてそちらを見ると、なんとタイミングの良いことか、先程まで噂の種不破雷蔵その人だった。私も慌てて口を閉じた。記憶を辿ってみたが廊下に出てから不破の名前は一度も出していない。彼には私たちが自分自信の話をしているとは分からないだろう。部屋での話が聞かれているはずがないのに、なんだかドキドキとする。

「じゃあ不破くんのこと考えてあげてね」

そう小さな声言って彼女はにっこりと笑った。「先行くね」と私の肩をポンと叩いてタタタと小走りで行ってしまった。目的地は同じ食堂だというのに私を置いてどうするのか。一緒に行こうと言ったのは彼女ではなかったか。そう文句を言いたかったが、彼女が何を考えているのかは分かる。少しでも私と不破をふたりっきりにしようという魂胆だろう。こんな廊下ですれ違うだけなのにふたりっきりにしてどうするというのか。友人は話しぶりからして彼女は随分と不破に肩入れしているようだった。もしかして不破が私を好いているという噂を流したのは彼女本人なのではないかと思った。でも一体何のために?

先輩」

考えている間に不破は私の目の前まで来て私の顔を覗き込んでいた。まさか声をかけられるなんて思ってはいなかったから驚いた。思わず身を引いて体を強ばらせると、不破はくすりと笑った。私の友人の笑みとよく似ている。私には真似出来ないなと思う。意地っ張りでプライドの高い私は彼女のようにふんわりとしたかわいい女の子にはなれないだろう。やさしい彼女に私は憧れる。不破も本当はこういう女の子の方が好きなんじゃないかと思う。

「一体どうしたんですか?ぼーっとするなんて先輩らしくないですね」

不破が私を好きかもしれないという話を聞いたくらいであからさまに態度に出てしまうなんてくのたま失格だ。しかもそれを本人に指摘されるなんてもっての外だ。

「何かあったんですか?僕で良かったら相談に乗りますけど」

そう言ったあとに「でも僕なんかじゃ役に立たないかな」と彼は頬を掻いた。目元が少し赤い。こういうところが友人は私に合っているのではないかと言ったのだろう。この一歩引くのがあるからプライドの高い私でも不破に甘えたり頼ったり出来るのではないかと。確かに私には合っているかもしれないが、不破の方は私のような面倒くさい女は嫌ではないのか。もしも不破が本当に私のことを好きなのだとしたら、どうして私なんかを好きになったのだろう。不破にはもっと小さくてふわふわしていてかわいくて守ってあげたくなるようなタイプが似合うと思うのだけれど。

「不破が私のこと好きって噂が流れてるらしいんだけど本当かなと思って」

私がそう言った途端、不破の顔がぶわわと真っ赤になった。赤い色が不破の耳元まで広がる。彼がそんな反応をするものだから私の方までびっくりしてしまった。こちらまでどこか恥ずかしい。

「えっと、どうして、それを」
「だから噂に」
「あ、そっか」

動揺して顔をペタペタ触る不破を見るのは面白かった。視線があちこちをさまよって定まらない。さすがにここまで露骨に動揺されれば、先の言葉を聞かなくても分かる。本当のことだったのだ。噂は噂の域を出ず、何かの間違えだと思っていた。こんな風に話を振るなんてひどいことをしてしまったなぁと後悔していると不破が視線を上げて、私と目があった。はっきりと彼の視線が私を捉える。

「それは本当のことです。もし良かったら少し考えてみてもらえますか」

想像していたよりも不破が強い目をしていたので驚いた。もっと後輩らしい、年下らしい人物だと思っていた。こんな目も出来るなんて全くの予想外だ。

「考えてみるも何も、私はあまり不破のことを知らないから」

私がそこまで言うと不破は目に見えて落ち込んだ。そんなすぐに顔に出さなくてもいいのに。

「だから、教えてくれる?」

そう言った途端不破は顔を上げて、ぱぁと華やいだ表情を見せた。一瞬でこんなにもころころと表情を変えられる不破は見ていて面白かった。こうしていつもより少し多く言葉を交わしただけでも、彼の知らないところがぽろぽろとこぼれ出るようだった。

「ありがとうございます」
「保留にしてって言ったのにそんなに喜んでいいの」

不破が悪い人じゃないのは知っている。むしろ私にはもったいないような人物じゃないかと思う。そんな彼が私を好いているという事実が夢じゃないかと思うくらいおかしな話だった。この幸運を逃したらもうこれ以上いい人なんて見つからないぞと誰かに怒られそうである。

「それでも少しでも可能性があるのなら僕はうれしいです」

そう言ってまた私に笑顔を向ける。彼は少し笑顔を安売りしすぎなんじゃないかと思う。保留なんて中途半端なことをしているのに気分を悪くするどころか、感謝までされている。変な人だなぁと思ったけれども、その笑顔を作っているのが私自身だと考えると悪い気はしなかった。

いずれ恋になる