打算的な女は予想外の出来事に弱い。そして私は打算的な女である。

「あれ、は知らなかったのか?雷蔵がここ数日恋文を書くのに忙しいって」

廊下での世間話の折に久々知兵助が発した言葉は私を驚かせるのに十分すぎた。予想もしていなかった事態に陥るとすぐに動揺してしまう。

「知らないよ」

口がカラカラに乾いて、それだけのことを言うのに精一杯だった。その雷蔵が恋文を書いているということは割と周知の事実であるらしかった。兵助が私も知っていて当然のもののように言うことから八左ヱ門も勘右衛門も知っているのだろう。三郎はもちろん知っているに決まってる。

それなのに私に伝わらなかった理由はただひとつ。私が雷蔵に懸想しているからだろう。

八左ヱ門は委員会が忙しくてなかなか喋る機会がなかっただけだろうけれども、三郎と勘右衛門はきっとあえて私に知らせないようにしていたのだと思う。一生懸命隠していたつもりだったがあの聡い二人が気づかないわけがなかった。

それと同時に私のいないところではそういう惚れた腫れただのの話を普通にしていることに驚いた。私だってそういう話には興味があるし聞いてみたいと思ったけれど、とあるひとりの答えを聞くのが怖くてその話題を避けていた。それにそういう話になったら聞くだけ聞いて自分のことを言わないわけにはいかないだろう。そう思って自分から話題を振ったことはもちろんなかったし、会話の流れでそういう話になりそうになったら急いで話題をそらしていた。そういうわざとらしいところからも三郎と勘右衛門に感づかれてしまったのかもしれない。

そのあと兵助とどのような話をして、どのように別れたのか記憶がなかった。多分私のことだから適当に話題をそらして適当なところで話を切り上げたのだと思うのだけれど、気がついたら一年生の教室の前の廊下を歩いていた。放課後のこの時間に教室にいるような一年生はいない。い組は教室でないどこかでお勉強をしているのかもしれないが、他の組は大体外で遊んでいる。

こんなところに一体何の用があるというのだ。慌てて引き返そうと思い、振り向くとすぐ後ろに人がいてぶつかりそうになる。見えた制服が濃紺色だったので一体同級生がどうしてこんなところにと思ったのもつかの間、顔を上げるとその人物が先程まで私の頭の中を支配していた不破雷蔵その人だったものだから驚いた。今日は驚かされることばかりで調子が狂う。

、一年生の教室に何か用だったの?」

それを言うのなら雷蔵こそ、と言おうと思って口を開きかけたが雷蔵のことだからきっとちゃんとした理由があってこの廊下を歩いていたのだろう。例えば同じ図書委員のきり丸を探していただとか。

「別に散歩」

苦しい言い訳だと思ったが深く突っ込まれても困るのでこれで押し切ることにする。さっさと話題を変えようと思考を巡らすが、恋文のことしか思いつかなかった。そもそも、兵助からその事実を聞いてしまった以上、雷蔵に突っ込まないのは私らしくない。不自然だ。私はいつだって私らしさを演じている。私は大概体面を気にする人間だったらしい。

「ところで雷蔵、恋文を書いてるんだって?」
「えっ、なぜそれを…」

やはり本当だったようだ。兵助から聞いたときは半信半疑だったのだが、この反応では真実なのだろう。雷蔵が顔を赤くさせて、後ろで組んだ手をもじもじと動かした。そのときに雷蔵の右手に握られた一枚の紙が見えてしまった。

「もしかして今持ってるそれ?渡しに行くところだったの?」
「いや、どうしようか悩んでたんだけど」

気づいてしまったからにはそれを見逃すことなんて出来ない。くるりと回って雷蔵の手の中を覗き込む。ただの関係のない紙だったらいいのにと思った。雷蔵の手が私の視線を避けるようにひょいっと動く。

「何か助言でもしてあげようか?女の意見が役に立つかもしれないし」
「うーん、助言はいいからこの手紙を読んでくれないかな」

そう言って雷蔵は右手に持った紙を差し出した。自分から見せてほしいと言っておきながらこうして差し出されると戸惑う。まさか本当に渡されるとは考えていなかった。絶対に雷蔵は恥ずかしがって断ると思っていたのだ。私が本気でそれを読みたかったのかと聞かれれば答えは『いいえ』だ。出来るものならば読みたくないし、存在すら知りたくなかった。けれどもこうなった以上受け取らないわけにはいかない。宛名があるだろうかと少しだけ気になったが、裏をひっくり返してもそんなものはなかった。その四つ折りの紙を開く。手が少しだけ震えていて情けなかった。

君が好きです

その六文字が大きく力強く書かれていた。悩みぐせのある雷蔵にしてははっきりとした文字だったが、その下に墨がぽたぽたと落ちた跡がある。書き始める前に長いこと悩んでいたのだろう。

見た瞬間ドキリと心臓が高鳴った。一瞬自分に宛てられたもののように錯覚してしまいそうになった。恋文をもらった女子というのはこんな気持ちになるのだろうか。雷蔵の筆跡には力があって、それに圧されてしまいそうだった。

「どうかな?」
「どうって…」

さっきは助言はいらないと言ったくせに、雷蔵は私に意見を求める。いらないと言われたから何も考えていなかったのだけれど、急遽考える。

「別にいいんじゃない?」

助言してあげようかと言った結果がこれだ。助言にも何にもなっていない。ただの感想だ。しかも随分と曖昧である。人の恋文というちょっと恥ずかしいものを見せてもらったにも関わらず何も有益なことを言えないなんて最低だ。

自分に宛てられたものでないと分かっていたのにドキドキしたのだから、この手紙は短いながらも十分気持ちを伝えられると思う。けれども、私がそう言ってしまったら雷蔵はこのまま手紙を想い人に渡すだろう。それを考えるとどうしても素直に『思いが伝わってきていいと思う』なんて言えなかった。

「でも手紙ってちょっと雷蔵に向いてないかも」
「ダメ、かな?」

不安そうな表情で雷蔵が尋ねる。これで十分だよと一言言ってあげれれば雷蔵は安心するし、自信を持てるのに。彼が散々悩んで手紙を書いたことは分かっているのに、それを無にするようなことを私はしている。

「直接口で言う方が雷蔵らしいかも」

雷蔵には恋文で告白というのは向いていないかもしれない。まず文面で悩んでしまって書くのに時間がかかるだろうし、また書き上げてから渡すまで時間があるから本当にこれで良かっただろうかと延々と悩んでしまいそうだし、いつどうやって渡そうかというところでまた悩む。こんなに悩む機会の多い恋文は雷蔵に向かない。どちらかというと直接言ってしまった方が一度えいやと覚悟するだけですむからいいのではないかと思う。

「そうかな?」

そう言って雷蔵は首を傾げた。口元に手を当てて悩む。悩むときの雷蔵の癖だ。そうやって悩み始めたらまた雷蔵は告白するのを先延ばしにするだろうと思った私はずるい。雷蔵はこういうずるい女は好きじゃないだろうなぁと思うのだけれど、私が打算的なのは生来のものなのでもう直りそうになかった。

どう返事をしたら一番いいか考えていると、雷蔵が私の横にだらりと垂れた右手をぎゅうと握った。びっくりして雷蔵の顔を見ると、彼はまっすぐと私の目を見ていた。

「君が好きだ」

雷蔵にまっすぐ見つめられて落ちない女子なんていないだろうと思う。これは決して贔屓目じゃない。ドキドキと心臓がうるさいくらいだった。

「わ、わたしで練習しないでよ」

顔が赤いのを見られたらきっと全部ばれてしまう。友達なのに頬を染めて気持ち悪いなぁと思われては嫌だ。君に言っているわけじゃないんだけどなんて言われた暁には心がえぐられて立ち直れなくなる。第一、雷蔵に好きな子がいると分かった以上、私の気持ちを知られるわけにはいかない。この恋は一刻も早く忘れなくてはならない。けれども、もし仮に、雷蔵が振られたら慰めて、弱みにつけ込めばいいと考えている。本当に嫌な女だ。

早くごめんと笑って立ち去ってほしい。十分きみの告白術には力があるので早く本番に臨めばいい。そんなことは口が裂けても言えないけれど。

「練習じゃないよ」

一瞬彼の言っている意味が分からなかった。練習じゃなければなんなのだろう。練習の練習だろうか。雷蔵が予想と違う答えを返すとすぐに頭が働かなくなる。それまであれやこれや色んなことを考えていた分余計に。

「前にが恋文とかもらえたら素敵と言っていたから書いてみたんだけど」

そんなことを言っただろうか。雷蔵の前ではそういう話は注意深く避けていたはずなのに。記憶をたどっていると「が友達と話していたのを聞いてしまったんだよ」と横から雷蔵が言った。確かに、雷蔵以外にならそう言ったこともあったかもしれない。

「やっぱり手紙は僕には向かないみたいだ。いつまで経っても渡せない」

その手紙を書くために一体どれほどの日々を費やしたのか兵助から聞いていなかったが、私が恋文がほしいと友人に話したのはもう何週間も前の話だった。あのあとすぐに雷蔵が私宛の手紙を書き始めたのだとしたら、ものすごく長い時間悩んでいたことになる。私のために。

「そういうことなんだけど、どうかな?」

先程と同じように雷蔵が私に尋ねる。さっきまではこうして聞かれることに困惑を覚えたしあんなに答えたくなかったのに、含まれている意味が違うと分かった途端にどうしていいのか分からなくなる。多分きっとすごくうれしいのに、私の頭が追いつかなくなって真っ白になる。

私は打算的な女である。いつだって自分がどういう風に振舞ったら一番いいのか考えてるし、自分を演じているし、どうしたら雷蔵に好かれるかなんてことも考えて行動している。時には彼の恋路の邪魔も厭わない。弱みにつけ込もうとも考える。そうやっていつも計算して生きているものだから、想定外のことに出くわすとすぐに動揺する。すぐどうしたらいいのか分からなくなる。いつもは無駄なくらい口が回るというのに、途端に喋れなくなる。打算的な女は予想外の出来事に弱い。


2011.05.09