不破雷蔵にくちづけされた。

何の前触れもなく唐突に。直前に私が言おうとした「らいぞう」という言葉は途中で飲み込まれてしまった、私と雷蔵は恋人同士でも何でもない。ただの友達で、決してそんな関係ではなかったはずだ。

「ごめん」

そう言って彼は私に添えた手を離した。「ごめん」ともう一度彼は呟いて、私から視線をそらす。その顔は今にも泣き出しそうでいて、今にも笑い出しそうななんとも微妙な表情をしていた。

「もうこんなこと二度としないから」

雷蔵はそう言ってまた俯いた。謝るのならくちづけなんてしなければ良かったのに。そんな後悔しているような顔をするのならしなければ良かったのに。そんなに苦しそうな表情をするのなら最初からしなければ良かったのにと思う。

「犬にでも噛まれたと思って、忘れて」

そう言って雷蔵は私の視線から逃れるように、くるりと私に背を向けて駆けて行った。私は何が起こったのかよく理解出来ないまま、しばらくそこにぼんやりと立っていた。



そんなことがあって以来、私と雷蔵は顔を合わせていない。同じ委員会だけれど基本上級生は下級生と組んで図書の貸出当番にあたるため、雷蔵と図書室で顔を合わせる機会などなかった。図書委員会全体の集まりはあるけれども、それもちょっと前にばかりだからしばらく活動はないだろう。そう思うと少しだけ気が楽だった。

「最近雷蔵と一緒にいないじゃないか。喧嘩でもしたのか」

私が雷蔵のいない図書室で読書に勤しんでいると、三郎が私の正面にどかりと腰を下ろして開口一番そう言った。雷蔵と同じ顔をした彼を見ると三郎だと分かっていてもドキリとする。

「喧嘩は…、してないと思う」
「じゃあなんだ。お前が一方的に雷蔵を避けてるのか?なんでまたそんなことを」
「避けてなんかないよ」
「じゃあどうして…」

と三郎はそこまで言いかけて、何かひらめいたと言うような表情をした。何やらひとりで納得している。

「分かった。なるほど、そういうことか」
「多分三郎が想像したのとは違うと思う」

多分三郎はいい想像をしてくれたのだと思うけれど、それとは違う。三郎が何を想像したのか具体的には分からないけれども、どちらにしろ現実よりいい展開だったに違いない。

「じゃあ何があったっていうんだ。言ってみろ」
「…言えない」
「ほら、やっぱりそういうことじゃないか」

私が言えないのをいいことに三郎は勝手に決め付ける。ここで否定の言葉を重ねてもじゃあ何があったんだと深く追及されても困るので沈黙を守ることにした。本当は三郎に喋ってしまって、相談した方が楽になるって分かっていたけれど出来なかった。

「どうせ答えは決まってるんだろ。だったらさっさと返事してやれよ」

やっぱり三郎は勘違いしているみたいだ。三郎の想像通りのことが起こっていたのならもっと話は簡単だったのになぁと思う。

「そうそう、雷蔵が落ち込んでるとこっちも調子狂うんだよなー」

明るい声が聞こえて顔を上げると、八左ヱ門が本を片手に立っていた。八左ヱ門はどかりと三郎の横に腰を下ろした。「八左ヱ門が図書室に来るなんて珍しいね」と言えば彼は「これを委員会の一年生のために借りに来たんだ」と持っていた本を私に差し出した。

が一言『大丈夫?』って声をかければ雷蔵は元気になるだろ」

八左ヱ門はそう言うけれども、私が声をかけたところで逆効果だろう。そもそも雷蔵が私を避けている。声をかける機会などあるはずがない。

「早く仲直りしろ」

横から再び三郎が口を挟んだけれども、そもそも喧嘩などしていないのだから、仲直りのしようもなかった。



そんなふうに顔を合わせない生活は少しずつ少しずつ私の生活に馴染んでいった。

馴染んでいったはずなのに、姿を見るとやはりドキリとする。ふと顔を上げると廊下の向こうからやってくる雷蔵の姿が見えた。私自身は今まで雷蔵を避けていたつもりはなかったのだけれど、実際彼を目の前にすると逃げ出したくなった。雷蔵との距離はまだあるけれどもこの廊下は一本道で、雷蔵と私の間に曲がり道などはない。しかも狭く、人通りのない廊下で気付かなかったふりをすることも出来ない。どこかの教室に入るのもわざとらしい。この辺りは空き教室ばかりなのだ。使われることのないほこりまみれの教室に一体何の用事があるというのか。

そんなことを考えながらも私は本心では雷蔵に声をかけられることを望んでいた。さすがにこの距離では雷蔵も引き返すなんてことはしないだろう。私を無視することなんて出来ないはずだ。

彼とすれ違う寸前で歩みを止めた。何かもっと釈明があるんじゃないかと期待した。それなのに雷蔵は顔を伏せたまま私の横をすり抜けた。

「逃げるの?」

思わず雷蔵の袖を掴んで問いただしていた。私に服を掴まれた彼はぴたりと足を止めた。私の挑戦的な言葉に雷蔵は気を悪くしたかもしれなかった。振り向いた彼の顔はハッとしたような表情だった。本当に久しぶりに雷蔵の顔を見たような気がする。

「君に申し訳なくて合わせる顔がない」

そう言って雷蔵は再び視線をそらした。また雷蔵は悲しそうな顔をする。そんな表情は見たくないのに、私がそうさせているのかと思うとこちらまで悲しくなるようだった。

「それでも顔を合わせない間、の頭の中が僕でいっぱいになっていればいいと思っていたんだ」

「最低だろう?」そう言って雷蔵は自嘲的に笑ってみせた。そんな雷蔵の表情は初めて見た。そもそも雷蔵がこんなことを考えているだなんて初めて知った。私は雷蔵と仲が良くて大抵のことは知っていると思っていたのだけれど、それはとんだ勘違いだったらしい。

「どうして雷蔵はそうやってひとりでなんでも決めちゃうの」

悩みぐせがひどいことで有名な彼にそんなことを言うのは変かもしれない。雷蔵はきっと私の知らないところでずっとどうしようか悩んでいたのかもしれない。でも雷蔵はいくら悩んでも自分から他人に相談しようとはしない。自分ひとりで結論をだそうとする。もちろんこちらが助言すればその案を取ったりはするが、こちらから何も言わなければそのままだ。そうして最後には自分で結論を出して行動する。今回も私の気持ちは雷蔵ひとりが決めつけちゃって、そこに私本人の意思はない。

「私の頭の中が雷蔵でいっぱいじゃなかったことなんてないよ」

本当は雷蔵にくちづけされてすっごくすっごく嬉しかった。雷蔵も私のこと好きなのかなって期待した。けれどもそのあとすぐに雷蔵は『忘れて』なんて言うからあれは気の迷いでうっかりなんとなくむらむらしてしまって、たまたまその場にいた私にくちづけてしまっただけなのかもしれないとか色々考えた。でもやっぱり雷蔵に口付けられたことは嬉しかったから忘れてって言われたけど他人に口外しなければこっそり私だけの思い出として取っておいてもいいかなとか思ったりした。

「ずるいずるいずるい。雷蔵はさいていだ」

私がそう言うと雷蔵は傷ついたような顔をした。いや、傷つきたがっている表情をした。それがまた私をいらつかせた。

雷蔵の胸ぐらを掴んで引き寄せる。目を丸くさせた雷蔵の顔が近づく。私は思わず目をぎゅうときつく瞑った。雷蔵がしたようにうまくいかなくて、鼻と鼻もぶつかったし、歯もぶつかった。それでも構わず唇を押し付けた。もはやキスというよりはただ唇が当たっているだけといった感じだった。雷蔵がしてくれたものと全然違う。何が違うのかは分からないけれど。

「これでおあいこでしょ」

ほとんど雷蔵を突き飛ばすようにして顔を離す。結構強い力で押し返したはずなのに、雷蔵の体はほとんど動かなかった。柄にもないことをしてしまった。雷蔵が今どんな顔をしているだろうと思うともう正面を向けなかった。私も最低だ。雷蔵はごめんねって謝ってくれたのに、こんなことするなんてずるいと思う。

「雷蔵のことすきだよぅ」

何やらへにゃへにゃとした情けない声が出た。こんなつもりじゃなかったはずなのに。我慢していたものがすべて流れでてしまうようだった。目から水分が出てしまいそうになったけれどそれはなんとか堪えた。雷蔵からただ一言、『好きだよ』と言ってもらえたら私は満足だったのだ。もしくは『のこと好きじゃないよ』ってはっきりと言ってくれれば良かった。私も大概わがままだ。こんな不細工な顔を見せたくなくて俯くと、頭のてっぺんに雷蔵の大きな手が乗せられた。

「ごめんね」

下を向いていたから彼がどういう表情をしていたか分からないけれど、花びらみたいに柔らかな声が降ってきた。顔がぎゅうと雷蔵の両手に挟まれて強制的に上を向かされる。いつだかみたいに雷蔵の顔が少しずつ近づいてくる。私は目を丸くさせて目を伏せた雷蔵の顔を見つめていた。そんな雷蔵の表情は初めて見た。ゆっくりと、遠慮がちに雷蔵の唇が私の唇に触れた。

再び私は雷蔵にくちづけされた。それは最初の唐突な口付けとも、私が先ほどした勢いだけのものとも違った。


唇から嘘