「雷蔵なんてもう知らない!ばか!」

そう言っては僕の肩を軽く突き飛ばした。僕が何が起こったか分からないままぽかんと口を開けている間には立ち上がってダッと僕に背を向けて走りだした。肩を突かれて後ろに手を着いていた僕はそれに反応出来なかった。手を伸ばすことが出来ずにいる間には襖を開けて出ていってしまった。一歩遅れてピシャリと襖が閉まる。普段の彼女からは考えられない荒い戸の閉め方だった。勢いの付きすぎた戸が跳ね返って隙間が少しだけ空いていた。

の『もう知らない』という言葉とそのときの泣き出しそうな顔が頭の中で何度も繰り返し再生された。

僕は未だに起こったことが理解出来ていなかった。後ろに手をつけたまま阿呆みたいに口を開けたままでいることに気がついて体を起こした。すると廊下から足音が聞こえて来て、隙間の開いたままの戸に誰かの手がかかった。

「おい、今がものすごい勢いで廊下を走って行ったがどうしたんだ?」

一瞬が戻ってきてくれたのかと思ったが入ってきたのは三郎だった。僕は落胆した。現実はそう甘くない。

「雷蔵がを怒らせるなんて珍しいな」

そう言って三郎は机の前に座った。机に肘をつきながらにやにやとこちらを見てくる。こんなところを人に見られるなんて最悪だ。僕は居心地が悪くなって三郎から視線をそらした。

「自分の彼女を大切に大切にしていることで有名な雷蔵がケンカとは」

三郎の言う通り、僕は今までとケンカしたことはなかった。彼女の機嫌を窺っているわけではないけれども、好きだからの気持ちは大切にしたかったし、もそんな我が強い子ではないから僕らが衝突することは全くと言っていいほどなかった。

「ケンカというわけじゃないよ。一方的に怒られた」
「なお悪いじゃないか」

言われなくても分かってる。彼女が怒っている理由が分からないなんてケンカよりも悪い。何が彼女を大切にしている、だ。実際はなんにも分かっていないじゃないか。聞いて呆れる。

「追いかけないのか」

言われなくたって追いかける。本当は今すぐにだって追いかけたいけれども彼女の怒っている理由が分からないのが足かせになる。今この状態で彼女に会いに行ったって何をするというのだ。どんな言葉をかければいいのか。何に謝ればいいのか分からない状態でただ口先だけでごめんと謝ったってはさらに怒るだけだろう。

彼女の泣き出しそうな顔がまた思い出された。

ひとりで泣いているかもしれないと思うと居ても立ってもいられなくなった。泣いているのならばその小さな肩を抱きしめてやりたいと思う。僕はひどく身勝手だ。

「言われなくたって行くさ」

そう言って僕は立ち上がり、三郎のにやにや顔を残して自室を後にした。

*

彼女が自分の長屋に帰ったであろうことは大体予想が着いていた。それ以外の彼女のお気に入りの場所は僕と一緒に過ごすことが多いからだ。彼女の部屋の前に立つと中から物音がして中に人がいることを教えていた。彼女の同室の子は今日出掛けていると聞いていたから、中にいるのは十中八九彼女本人だろう。



部屋に入る許可を得ようと名前を呼ぶと次の言葉を紡ぐ前に「入らないで」と鋭い声が中から発せられた。僕は襖を開けようと伸ばしていた手を慌てて引っ込めた。本当はきちんと顔を見て怒っている理由を尋ねたかったのだが、これ以上の機嫌を損ねるべきではないと思ったのだ。

「怒らせてしまって悪かった」

まずは謝る。

「でも、が怒っている理由が分からないんだ。出来れば顔を見て話してほしい」

しばらく返事を待ってみたが襖の向こうからは何の物音もしなかった。は僕と話す気はないのだろうか。もう僕と和解する気はなくて、愛想を尽かされたのかもしれない。襖一枚しか隔たっていないはずなのに、その一枚がとても分厚い壁のように思えてきた。それでも諦めきれなくて座り込んで柱に寄りかかって待っていると、中からか細い声が聞こえてきた。

「雷蔵は私がいてもいなくても関係ないみたいだから」
「そんなことない!」

つい反射で答えた。いつもよりも大きな声が出てしまった。がいなくていいわけがない。さっきだってが僕の部屋から出ていってしまっただけであんなに焦ってしまったのに、いてもいなくても同じなわけがなかった。話を聞こうと思って来たのにそれを忘れてつい口を挟んでしまう程度には僕はに必死だ。

中が静まってしまって、声を荒らげてしまったことを後悔した。せっかくが話し始めてくれたのに自分で遮ってしまうなんて馬鹿だ。再び黙りこんでしまったの次の言葉を待つ。

「雷蔵がずっと悩んでいるから」

そう言ってはぽつぽつと話し始めた。確かにが怒って部屋を飛び出す直前まで僕はお得意の悩みぐせを発動させてうんうんと唸っていた。しかし僕の悩みぐせは今に始まったことではない。恥ずかしいことだけれど、僕の悩みぐせというのは有名でそれは当然も知っているし、僕らが付き合い始める前からはそんな僕に何度も遭遇している。今まで何時間悩んだって彼女はにこにこと笑いながら僕が答えを出すまで待っていてくれた。ごめんね、と謝れば『ううん、大丈夫だよ』と彼女はやわらかくて僕の大好きな笑顔をみせてくれていた。僕の自惚れかもしれないけれども、はそんな僕を理解して、そこも含めて好きになってくれていると思っていた。

「雷蔵は絶対人に相談しないよね」

僕はまだの言いたいことがまだよく分からなかった。襖一枚隔てた向こうでは一体どんな表情をしているのだろう。

「雷蔵が自分のことで悩むのはいいの。雷蔵が自分で答えを見つけ出そうとする姿勢はとても尊いものだと思ってる」

僕の欠点をそういう風に思ってくれている子がいることに僕はとても嬉しくなる。好きな子が自分を認めてくれるのは純粋に嬉しいことだった。

「ただ、ふたりのことなのに雷蔵は私に相談しないでひとりで悩んでしまっているから」

そこで一度は言葉を切った。息を吐いてからもう一度吸いなおす音が聞こえた。

「私が隣にいるのに意味ないなぁ、と勝手に思ってしまっただけだよ」

その後の言葉を待ったがそれっきりは黙りこんでしまった。の言いたいことはこれだけだろうか。部屋の中からかすかな物音がしたがそれもすぐに止んでまた静かになってしまった。

「開けていい?」

再度尋ねてみたが中から返事はなかった。

「開けるね」

返事のないままに一応形だけの断りの言葉を入れて襖を開ける。早くの顔が見たいと思っていたのだが、彼女の姿はなかった。部屋の隅から隅まで見回してみたが姿はどこにもない。しかし先ほどまでがこの中にいたのは確かだ。声はきちんと中から聞こえていた。さっきの物音はがどこかへ隠れる音だったのだろうか。そうだとしても人ひとり隠れられるところなんてこの部屋の中にひとつしかない。



名前を呼んで押入れの戸を開ける。カタリと音を立てて押入れの戸を開けると中の空気が震えるのが分かった。暗く狭い押入れの中で彼女は膝に顔を埋めて座っていた。

、出てきて」

そう言ってに手を伸ばす。は少しだけ身をこわばらせたが気付かなかったふりをして彼女の手首を掴んでこちらへ引き寄せる。振り払われるかもしれないと覚悟していたが、意外にも彼女はすんなり押入れの中から出てきた。背中に手を回してもう逃げられないようにする。彼女は黙って俯いたまま僕の服にしがみついていた。

「顔、見せてよ」
「嫌」
「どうして?僕の顔なんてもう見たくない?」
「そうじゃなくて。今、私の顔絶対にぐちゃぐちゃだから」

そう言っては僕の胸元に顔を押し付けた。不謹慎なことだとは思うけれど、僕はがこうして僕に怒ってくれたことがちょっと嬉しかったりする。普段泣いたりだとか怒ったりだとかあまりしない彼女が僕のことを考えて取り乱してくれたことが特別なことのように思えた。

「ごめん。僕はどうやら自惚れていたみたいだ」

僕はの気持ちを理解していると思っていた。彼女は僕の悩みぐせとかそういうところもすべて含めて自分を好きになってくれていると思っていた。それは事実なのかもしれないけれどすべてじゃなかった。実際が自分の口から話さないと僕ではどんなに頭を捻ったって、彼女を思いやったって分からないことはある。

自分が人に相談しないというのも今言われて初めて自覚した。そう言われればそうかもしれない。僕が延々と悩み続けてしまう理由のひとつはこれかもしれない。人に言われればその案を取ることはあるけれども、助言を乞うたことは記憶にない。

「決してを信頼していないとか、存在を蔑ろにするとかそういうつもりはなかったんだよ」
「知ってる。知ってるから自分でもこんなことで怒りだして私は身勝手だなぁと思ってるよ」

部屋で僕が悩んでいたことは今日一日をふたりでどうやって過ごすかについてだった。自分自身のことならともかく、ふたりのことだったのだから隣にいるに一言『どう思う?』と聞けば解決することだった。けれどもそうしなかったのは僕の癖のようなものでを特別頼らなかったわけではない。

「これからはちゃんとふたりで話し合って考えよう」

彼女の頬に手を添えて上向きに力を入れると彼女はそれに従って顔を上げてくれた。目尻から涙の流れた跡があった。の顔を久しぶりにみたような気がした。久しぶりに見た彼女がいとしくていとしくてたまらなくなる。

額にひとつ。涙を舐め取るように目尻にひとつ。頬にもひとつ。キスの嵐を降らせるとはくすぐったそうに身をよじった。それを逃がさないように最後に唇に吸いつくとはすっかり僕に体重を預けてくる。僕にとってはそれが信頼の証のようで嬉しかったりする。彼女が僕だけにする仕草だ。

「ねぇ、このあとどうしたい?」

今さらながら尋ねるとは何も言わずに僕の背に小さな手を回してしがみついた。たまにはこういう過ごし方も悪くはないかなと思う。


昼下がりの感情