タタタと廊下を走ると裸足に廊下の冷たい感触が気持ちよかった。
「雷蔵、いる?」
長屋の雷蔵の部屋を尋ねると文机に向かっていた人影がこちらを振り向いた。「雷蔵?」ともう一度尋ねると彼はにこりと笑った。三郎はなぜか私の前では雷蔵の振りをしないからすぐに分かる。この笑顔は雷蔵のものだ。
「さっきたまたま食堂のおばちゃんにお饅頭もらったんだけど一緒にどうかなって」
部屋を見回して「三郎はいないの?」と聞くと「委員会でしばらく戻らないよ」と返ってきた。せっかく三人分お饅頭をもらってきたのに。「そっかぁ、いないのかぁ」と言いながらなんとなく部屋を見回す。委員会ということは三郎はそこでお菓子食べてくるからこのお饅頭はいらないかもしれない。三郎の分は雷蔵が食べるだろうか。
「入っておいでよ」
雷蔵は丁度部屋の片付けをしていたらしく、私が入ると行李を端に寄せた。その言葉に甘えて雷蔵の前に腰を下ろす。
「これちょうどおばちゃんが作ってるとこに遭遇してね。しんべヱくんたちにあげてたおこぼれとしてもらったものなんだけど、ひとりで三つも食べられないから。三郎はあれでいて甘いもの好きだし、雷蔵もお腹空かせていないかなぁと思って」
私が言うのを雷蔵はにこにこと微笑んで聞いていた。雷蔵とふたりきりでいるとドキドキしてつい単語が多くなってしまう。頭がうまく働かなくて、説明するのに無駄な言葉が多くなる。ただでさえパンパンの頭がさらに破裂しそうになる。
「三郎がいないならどうしようか。帰ってくるまで待つ?それとも先に食べちゃう?」
一生懸命喋っているとふと雷蔵がじっと私を見つめているのに気が付いた。喋らない雷蔵にどぎまぎして視線を下に下げると雷蔵はそれを追いかけて私を下から覗き込んできた。
「ねぇ、何かあったでしょ?」
なぜか雷蔵には全部お見通しなんだ。「何のこと?」ととぼけてみても「無駄だよ」と短く返されてしまう。ちょっとべらべらと喋りすぎたかもしれない。でも私が雷蔵の前でお喋りなのはいつものことだし、特に不自然というわけではなかったはずだ。何で雷蔵には全部分かっちゃうんだろう。そんな顔に出してるつもりはないし、現に友達だって全く何も言わなかったのに、どうして雷蔵はそういうこと言うのだろう。
「いつも無理ばっかりするんだから」
雷蔵の両腕が伸ばされて私の頭をぎゅっぎゅと抱きしめる。雷蔵はきっと私のことを妹のように思っているのだろう。だからこんな風に私の面倒を見てくれるのだと思う。
私が雷蔵のこと男の子として好きだって知ったらどんな顔するかなぁ。
「どうして分かったの」
「は何かあると食べ物を持って僕のところへやってくるからすぐ分かるよ」
そうだっただろうか。あまり意識をしていなかった。無意識のうちに足が雷蔵がいるところに向かっているのだろうか。何か尋ねる理由がなければいけないと思って無意識のうちに適当にその辺でお菓子を調達しているのだろうか。
「本当にたいしたことないんだよ」
確かに今日、少しだけ委員会でヘマをした。立花先輩に迷惑をかけてしまって、それでもお叱りの言葉を受けなかったからなんだかもやもやした気持ちではあったけれど、そこまで気にしているつもりはなかった。私は私に出来ることしか出来ないし全然無理なんてしているつもりなんてないのに、雷蔵はよく私を過大評価する。雷蔵は私がいつも頑張ってる努力家みたいな言い方をするけれども実際はそんなことなくて、私は結構なちゃらんぽらんだ。
「そうかもしれないね」
雷蔵が私を抱きしめてくれるのは元気がない一年生にするのと同じ意味しか持たない。下心を持った私がその背中に手を回すと雷蔵が放したくなったときに出来なくなってしまうから私からは腕を回さない。雷蔵がぎゅうと私の頭を抱いてくれるのに任せて雷蔵の胸板に顔を埋めた。腕を回せない代わりにおでこをぐりぐりと雷蔵に押し付ける。雷蔵に体重を預けて目をつぶって深呼吸をする。そうすると少しだけ気持ちが落ち着いた。雷蔵には頭しか触れていないから分からないだろうけれど、今私の心臓は爆発してしまいそうなくらいドクドクと勢い良く血液を送り出していた。
じわじわと触れ合っているところから雷蔵の熱が伝わってくる。雷蔵に抱きしめられるのは心地良かった。しばらくそうしていたが彼の手が両肩に乗ったので私は自分から顔を上げた。
「せっかくだから持ってきたお饅頭食べようか」
そう言って彼は私を放した。
恋人でもない女が弱るたびにやってきて面倒くさいなぁと疎まれても仕方ないのに、雷蔵はやさしい。人が弱っているとき雷蔵はとってもやさしくなる。いや、雷蔵はいつでも人にやさしかった。だから弱っている人には私が特別なわけではなくて。ああ、なんだかよく分からなくなってきた。
「ごめんね、今日はもう帰るね」
「そっか。大丈夫?」
「大丈夫。ありがとう」
そう言って私は立ち上がる。雷蔵に抱きしめられたあとでなんとなく恥ずかしかったからだ。とてもじゃないけれど、このままふたりっきり顔を突き合わせてお饅頭を食べる気にはなれない。三郎もいつ帰ってくるともしれないから待ってられないし、申し訳ないが帰らせてもらうことにする。
今度雷蔵にはお詫びをしなくてはと思いながら雷蔵の部屋を出る。行きと同じひんやりとした廊下の感触を感じながらペタペタと数歩歩いたところで「」と呼び止められた。振り返ると雷蔵も立ち上がって戸の柱に寄りかかっていた。
「また来れば?歓迎はしないけど」
雷蔵はやさしいから弱ってる人を放っておけない。けれども、進んで面倒を見たいわけではない。歓迎されているだなんて思ってはいないよ。
「何勘違いしてるの」
自分の考えていることが顔に出ていたのだろうか。そう言って雷蔵は私のほっぺたを両手で挟んだ。ぎゅうぎゅうと挟まれて私は強制的に雷蔵の方へ顔を向けさせられた。雷蔵の大きな手で私の顔は全部包められてしまいそうだった。
「悲しそうな顔より笑顔が見たいよ」
そう言う雷蔵の顔を見たら心臓がきゅうううって縮まってまともに顔が見れなくなってしまう。もし、本当に雷蔵の妹だったら良かったのに。笑顔が見たいって言われているのに、私の目はそれと反対に段々うるんできてしまう。雷蔵が好きだー好きだーって思ってしまってなんか涙が出てくるんだよ。私が雷蔵のこと好きだから雷蔵の願いを叶えてあげることが出来ないことが悔しい。
「でも、泣くなら他の人のところじゃなくて僕のところに来てほしいって思うんだよ」
「変だね」と雷蔵が言うので私も「うん、変だね」と返した。変だよ。変な雷蔵。矛盾している。だけど私も雷蔵に迷惑をかけたくないって思うのに、つらいとき雷蔵にこうやってぎゅうって抱きしめてほしいって思ってしまうのだ。これが一番元気が出るような気がする。それと同時に笑うときも雷蔵と一緒がいいなとも思う。
「じゃあ何か嬉しいことがあったときもお菓子持って雷蔵のところに来てもいいかなぁ」
私がふざけて言うと雷蔵は少し微笑んで「ばか」と言った。
2011.04.14//企画ひとひらへ提出. か子
|