白狐譚


私はおにぎりやら果物やらが乗った皿を持って山道を登っていた。この道を行くのはもうお手のものででこぼこした道もなんなく進む。通い慣れないころは石や木の根に足を取られたりしたものだが、今はもうそんなことはない。目をつぶってでも歩けそうなほどである。

私はこの道が好きだった。木々がさわさわと音を立てて、光が木の葉の隙間から落ちてくる。友達などはこんな山道を定期的に登らされてかわいそうなどと言うが私は全く苦に感じなかった。村も十分田舎であるが、それよりもずっと自然に近いこの山の中はとても居心地が良かった。家の中で家事をするよりはこちらの方が気が楽だから喜んで引き受けたいくらいだ。きちんとしたお役目なのだからこんなふうに考えてはいけないのかもしれないけれど祠に着くまでは散歩気分で楽しいのである。

しばらく道を行くと少し開けた場所に出る。そこに小さな赤い鳥居と狐の石像、そして祠があった。あまり手入れの行き届いた祠とは言えないが、最低でも月に一度は供え物を持ってきて掃除をするので寂れた感じはしない。前回きたのはつい五日前のことだ。今は田植えの時期で頻繁に神様に祈っておこうと父が言ったからだった。

「神様、どうか今年も豊作でありますように」

そう言って持ってきたお供え物を祠の前に置いて祈る。たまに村を代表してお供え物を供えにいく。そのお役目が私だった。

お祈りを終えて目を開く。木漏れ日が目をちらつかせる。あまり長くいてもしかたがないのでついていた膝を払って立ち上がる。祠の掃除はこの間来たときに念入りにやったのできれいなままだった。落ち葉の季節でもない今はあまり掃除するところもなかった。

帰って家事の手伝いをしなければならないと思うと気が重かったがあまり遅いと心配される。一応祠のある場所は山の中であって、そんなものがいるという噂はついぞ聞いたことがないが山賊に出会したのではないかと思われても困る。もっともこの場所は山賊よりもどちらかと言えば山の神様がいるだとか妖怪がいるだとかそういう噂の方が現実味を持つ田舎である。山賊に攫われたと考えるよりは神かくしにあったと思われるかもしれなかった。確かにさらさらと光が揺れるこの場所はなんとなく現実感がなかった。

またきっとすぐ来ることになるだろうに、なんとなく名残り惜しくて祠を振り返る。そこには緑色の木の葉と赤い鳥居が見えるはずだった。はずだったのだが、振り返るとそこにはないはずの人影があった。

「あ!」
「あっ」

今まさにお供えした供物を持った男の子が手に取っているところだった。私が祠に背を向けてから数歩しか歩いていないのに一体どこに隠れていたのだろう。私が大きな声を上げるとその私と同年代くらいの男の子はバランスを崩してその場にこけた。

「お供え泥棒!」
「違います!」

大きな声を上げて彼は顔を上げた。転んでも手にした食べ物はきちんと土を付けないようにしていた。転んで服に土が付いただろうにそれを払うこともせず、供え物をしっかり握っている。

「まぁ正確に言えばこれは僕に捧げられたものじゃなくて稲荷神のものだけれども、僕だってお腹空いていてね」
「そんなこと言ってもダメなものはダメです!」
「でも稲荷神の使いである僕に少しくらい分けてくれたって…」
「使い?」
「あっ」

そう言って彼はしまったという風に両手を口に当てた。よく見るとその男の子は村では見ない着物を着ていた。神主さんの着るような服装をしている。ここは小さなお稲荷様を祀る祠だが、そこに神主さんがいるという話は聞いたことがない。そもそもここは祠であって神社ではない。それに神主さんの服装とは微妙に異なっている。しかしお供え泥棒にしてはいいものを着ている。一体何者だろうと彼を観察していると彼の後ろにちらちらと白いものが見えた。

「しっぽがある…?」

私がそう呟くとその男の子はバッと勢いよく振り返って駆け出そうとした。後ろを向くと大きな尻尾がしっかりと見えた。私はとっさに手を伸ばしてそのしっぽをぎゅうっと掴んだ。するとその男の子は前につんのめって止まった。よく見ると少年の頭には耳も生えていた。

「いたい!」
「何これ、本物?」

私は目の前にしているものが信じられなかった。もふもふと広がる長い髪があるからそれと同化していて気がつかなかったがそれは紛れもなくしっぽであった。偽物ではないかとぎゅうと再び強く握ってみると再び彼は「だから痛い!」と声を上げた。偽物であったら握った瞬間に声は出ないはずである。

「あなた一体何なの?」
「僕は稲荷神の使いの白狐なんだ」
「お狐さま?」
「そう呼ぶ人間もいるね」

そう言って彼は少しだけ得意げな表情をした。私はただただ目の前のことが信じられずにいた。神様を信じていないわけではないが、まさか自分がそれを目撃することになるとは思ってもみなかった。神様というのは人間の目には絶対に見えないものだと思っていた。まぁ目の前にいる少年は神の使いであるらしいが、霊というものさえ見えない私がまさかそんなものと遭遇するなんて思えなかった。

「だからいいだろう、僕はお腹が空いているんだ」

そう言って彼はお供え物の中のおにぎりを手にとった。今まで私が持ってきたお供え物も食べていたかもしれないが、前回持ってきてから随分日が空いてしまっている。神様の使いだから人間と同じ感覚ではないかもしれないし、狐だから山のものも食べていたかもしれないが今まさにお腹を空かせているのを放っておくのは気が引けた。

「じゃあ半分だけだよ。残りは神様へ残して置いてね」

供物泥棒を見逃すわけではないし、神様の使いだというのだから少しくらい許されるだろう。

「やったぁ!」

そう言って彼は手にしていたおにぎりに嬉しそうにかぶりついた。神様の使いだからだろうか、少し偉そうに喋る彼がこのときはとても年相応に見えた。表情は普通の少年なのに、その頭には狐の耳が、おしりには狐のしっぽが付いている。私は未だに自分の目が信じられなかった。



次の日私は珍しく一日と日を空けずに祠にお参りにきた。昨日のことは夢ではないかと思ったが、祠の石段の前に人影があって、人間にはないはずの大きなふさふさとした狐のしっぽがその後ろで揺れていた。

「また来てくれると思っていたよ」
「どうしてまた姿を見せるの?こういうのって人間に見られてはいけないのではなくて?」
「信心深い人間は好きだよ」
「あなたは私の持ってくるお供え物が目当てのように思えるけれど」

一度見られたら二度三度見られても同じということだろうか。どうやら彼はもう私には姿を眩ます気はないようだった。それよりも私が持ってきた供物に興味津々のようで私の手元からずっと目を離さなかった。私がそれを祠の前に置くと、彼はごくりと喉を鳴らした。

「いっただきまーす」
「ダメ!それは神様へのお供え物なんだから。あなたは神様じゃないでしょう」
「でも昨日はくれたじゃないか」
「昨日は特別!」

そう言うと彼はつまらなそうに口を尖らせた。そもそもこれは私個人のものではなく、村を代表して供物を運んできているだけである。私の一存で食べていいよなどと言えるわけがなかった。それでもあからさまにしゅんとしっぽと耳を垂らす姿を見るのは心苦しいものがある。

「あなたには別に用意してきたから」

そう言って懐から包みを取り出してみせると、彼の耳としっぽがピーンと立って彼の目がキラキラと輝いた。跳ねるような手つきで私から包みを受け取ると待ちきれないといったふうにそれを開いた。

「わぁ!にぎり飯!」

包みの中を見て彼は目を輝かせた。すとんとその場にしゃがみ込むと包みの中のおにぎりを両手に持ってぱくつく。そんなにお腹が空いていたのだろうか、ただの塩にぎりをとても美味そうに食べた。

「ねぇ、お狐さま」
「その呼び方やめてくれないかい?僕には雷蔵って名前があるんだ」
「雷蔵さま?」
「千代は特別に雷蔵って呼んでもいいよ」

彼は手に付いた米粒を口で取りながらいった。ふたつあったはずのおにぎりはもう跡形もなく消えていた。神の使いと少し偉そうなこの少年が名前を教えて、さらには呼び捨てで構わないと言ったことに私は少なからず驚いていた。

「僕のために食べ物を持ってきてくれたからね」

そう言って彼は目を細めた。「雷蔵?」と呼ぶと「千代」と彼は私の名前を呼び返す。そこで私はふとある違和感に気が付いた。

「あれ、私の名前教えたっけ?」
「千代は供え物を持ってきたついでに色々喋って帰るだろう。だから知ってる」

確かに誰もいないと思って普段話せないことをぺらぺらと喋ったこともある。確かにあれは神様に向かって話しかけていたが、それはこうして相手とこうして話すことを想定していなかったから言えたことであって。自分の独り言を聞かれていたかと思うと恥ずかしくて顔から火が出そうだった。

「えっと、この前話していたのは確か村にいるみっつ上の近所のお兄ちゃんがかっこいいとかどうとか…」
「忘れて!」
「大丈夫だよ。それを聞いて別にどうこうしようとは思っていないから」

そう言って雷蔵はにっこりと笑った。雷蔵が善良な狐で良かったと思う。神様の使いだからきっと嘘は吐かないはずだ。熱い頬を冷ますように手でぱたぱた仰ぎながら立ち上がる。今日はこれ以上雷蔵と顔を合わせづらかった。

「じゃあ私はそろそろ帰るね」
「えー、もう帰ってしまうの?」
「供え物を置きに来るだけなのにあんまり遅くなっても不思議がられるし」

また神かくしだなんだと思われたら困る。昨日も母さまに随分遅かったじゃないのと不審がられた。そのときは神様に感謝の気持ちを示すために念入りに祠の掃除をしていたのだと嘘を吐いた。しかしその嘘も二度は通じないだろう。

「明日も僕のために持ってきてくれる?」

そう言って雷蔵は私をじっと見つめる。こういうふうにおねだりするのは反則だと思う。でも神様にはいつもは私たちのお願いばかり聞いてもらっているのだから逆に私が神様の使いのお願いを聞いてあげても日頃の感謝を表すのもいいかもしれない。これくらいで恩返しが出来るとは思っていないが。もっとも彼は神様の使いだが。それでも使いの狐にやさしくすれば神様も喜んでくださるかもしれない。なんて頭の中で言い訳をしたが、実のところ私は雷蔵の喜ぶ顔をみたいだけなのかもしれなかった。

私が「仕方ないなぁ」と言うとお狐さまは嬉しそうに笑った。

2011.04.13