今朝はなんだか良い夢を見た。

けれどもふわふわーっと意識が浮かび上がってくるときに、ざぁざぁと音がして「ああ、今日は雨なのだなぁ」と思っていたら、夢の内容を忘れてしまった。余計なことは考えるべきではなかった。折角しあわせな夢だったはずのに。なんとか夢を思い出そうとしてみるけれども、あったかい湯気を掴もうとしても指の間から逃げてしまうように、どこかへ行ってしまって思い出せない。ただただ夢が良いものであったことを示すように胸の隅っこがほっこりとあたたかいだけだ。

隣を見ると友人の布団はすでに空になっていたので慌てて起き上がる。ぼーっと夢について考えている場合ではなかった。昨日の夜、寝る前に畳んで枕元に置いておいた装束に着替える。

早足で食堂に駆け込む。きょろきょろと辺りを見回すが見知った人影は見つけられなかった。出遅れてしまったから、きっと今日はもう食べ終わってしまったのだろう。友人の姿もない。私はおばちゃんから受け取った膳を持って手近な席に着く。ひとりでもぐもぐと食べるご飯はいつもほどはおいしくないと思った。すべて寝坊した自分が悪いのだけれど、それでもなんだかやりきれなかった。少しぐらいいいことがあったっていいのに。

教室に入るとやはり同室の友人はここにいた。「どうして置いて行ったの」と聞くと「委員会活動で朝とても早かったのよ。昨日言ったでしょ」と返された。そういえばそんな話を聞いたような気がしなくもない。どうも記憶がぼんやりと霞がかっているようでいけない。

午前最初の授業は礼儀作法を学ぶものだった。私はこの授業があまり好きではなかった。なんだか息苦しい感じがする。頭のてっぺんから足の先まで先生に全部見張られて、指一本動かすにもギチギチと全身が強張ってしまう。この授業の成績はあまり良くないのだけれど、精一杯頑張る。こういう女らしい所作は身につけておいた方が役に立つだろうと思う。それに彼は女の子らしい方が好きなんじゃないかと思うから、私は授業で習ったことをなるべく吸収出来るように集中する。集中するのだけれど、意識すればするほど動きがギクシャクしてしまう。あまりにもひどい動きだったのか、先生にまで「さん大丈夫ですか」と言われてしまった。きっとこういうことを意識せずにできるようになったら一人前になれるのだろう。

そんな風にカクカクとした動きを続けているとあっという間に午前の授業は終わってしまった。頑張りすぎたせいか、あまり授業中の記憶がない。あとで友達に聞いたりして復習をしなければならないなぁと思いながら友達数人と一緒に食堂へ向かう。明日町へ出て新しい髪紐を買ったり、おいしいと評判のお団子を食べに行こうと他愛のない話をする。「あのお団子食べたことある?」「私この間委員会の先輩にもらった。おいしかったよ」お団子をくれるなんていい先輩だなぁと私は思う。とてもじゃないけど、うちの先輩はそんなことしてくれそうにない。お団子をくれないからって不満があるわけではないけれど。うちの先輩はちゃんとお団子くれる以外のところでいい先輩なのだ。それにきっとお団子が食べたいと言えばそのうち思い出したら買ってきてくれるくらいの優しさはあると思う。

きゃいきゃいと騒ぎながら廊下の角を曲がると、同じようにわいわいと話している男子の一団とすれ違った。私はふわりふわりと揺れるその髪を無意識のうちに目で追ってしまう。「それでさっき兵助が---」と集団の中の一人が喋る声が聞き取れた。あははと笑う声も聞こえる。そこにいる彼はなんだかとても楽しそうに笑っていた。じっと見ていたけれど当然のように彼と目が合うことはない。それをいいことにすれ違ったあとも私は首をひねって、その後ろ姿を見続ける。「、どうかしたの」と友人のひとりに声をかけられて、やっと私は前を向いた。「ううん、何でもない」

食堂に着くと席のほとんどは埋まっていて、奥の一角だけが丁度ぽっかりと空いていたのですかさずそこに座る。Aランチの煮物をもぐもぐと口に運んでいると、入り口がにわかに騒がしくなった。視線を上げると先ほどすれ違った男子の一団が入ってきたようだった。すれ違ったとき食堂へ向かう私たちと逆方向へ行くから、てっきり彼らはもう食事を済ませたのだと思い込んでいたのだけれどまだだったらしい。私は思わず口元へ運んでいた箸の動きを止めてぼーっとそちらを見てしまう。彼らの中のひとりがメニューを眺めて首をひねり何か悩んでいるようだった。何かとは当然昼食のメニューだろう。どちらを選ぶのだろうとしばらく見続けていると、彼の友人の一人が何かを言い、それで彼は決めたらしかった。おばちゃんに注文し、膳を受け取る。こちらの近くへ来ないかなと淡い期待を抱きながら彼の行く先を見ていたが、彼らは入り口に近い方の席に座ってしまった。それに私は少しがっかりする。けれども自分の周りをよく見てみると空いている席はひとつしかなかった。食堂が混んでいるのだから仕方ないと私は自分に言い聞かせる。そんなに幸運は続かないのだ。今日は姿を見れただけで満足しなければ。

私の席からは丁度彼の顔が見える位置だった。声までは当然聞き取れないが、何か楽しそうに喋っていることだけは分かる。何を話しているのだろう、と私は空想をめぐらす。けれども男の子が何の話をするのかなんて全く想像がつかなかった。

 「、まだ食べ終わらないの?全然箸進んでないじゃない」と友人に言われて私はハッと我に返りもぐもぐと口の動きを再開させる。食欲がないと取られて「具合悪いの?」とまで心配されてしまった。私はそれに全力で首を横に振りながら、ごくんとご飯を飲み込む。

「午後は何するの?」と聞かれたので「図書室で勉強」と答える。すると友人達は「そうね、は今日の復習した方がいいかもね」と笑う。私の礼儀作法の成績の悪いことは周知の事実なのだ。落第してしまわないようにその授業があった日の午後は図書室で勉強するのが日課になっている。「分からないところあったら夜聞きにおいで」「ありがとう」そんなやりとりをして食堂で友人と別れる。

戸を開ける。貸し出しカウンターに座っていたのは図書委員長の中在家先輩だった。私は少し残念なような安心したような気持ちになる。私はいつもお世話になっている本棚の前へ立ち、その中から目当ての本を取り出す。授業内容が分かりやすく書いてあるこの本は先生からおすすめされたものだ。図書室での勉強を始めると決めたときからずっとお世話になっている。私はその本を持っていつもの窓際の席に座る。パラリと捲ると嗅ぎ慣れた匂いがする。
私は滅多に本を借りることはない。大抵図書室で読んでいる。それは部屋には同室の友達がいても気を使わせることがないようにということもあるし、単に私がこの図書室という空間を気に入っているという理由もある。委員長である中在家先輩の方針なのか図書室はいつも綺麗に掃除されているし、とても静かで居心地が良いのだ。

先生にもよく言われることなのだが、私には落ち着きが足りないのだそうだ。何かが少しでもうまくいかないとすぐバタバタと慌ててしまう。この図書室という空間はそれを直してくれるような気がするのだ。ここにいるときだけは落ち着きというものを身につけられるような気がする。もちろんそれはただの気のせいで図書室から出ると途端に落ち着きのない元の自分に戻ってしまうのだけれど。

ガラリと戸が開く音がして視線を上げてそちらを見るとひとりの男の子が入ってきた。図書委員である不破くんだった。「遅れてすみません、先輩」「いや、大丈夫だ。あとは頼む」「はい」そう言って中在家先輩は立ち上がり、退いたその席に不破くんが腰を下ろした。私はそれを横目に見ながらページを捲る。本を読まなくてはと思うのだけれど、視線はそちらに向けられたまま動かない。いつもそうだ。彼が視界に映るとそちらばかりが気になってしまう。彼の何がそんなに私の目に止まるのか分からないのだけれど。とてもじゃないけれども、このままでは勉強なんて出来るわけがない。そう思って私は本を持って立ち上がる。自分の部屋で勉強しようと思ったのだ。

図書室にいるはずなのに、私の心臓はドキドキといって、落ち着きというものがどっかへ飛んでいってしまったようだ。

貸し出しカウンターの前へ立って「お願いします」とだけ言って本を出すと、不破くんはにっこりと笑ってその本を受け取った。図書委員ではない私にはよく分からない手続きを彼が済ませるのを私は突っ立ってぼんやりと眺めていた。

「はい、期限は一週間です」その言葉とともに本が差し出される。私はそれを受け取ろうと手を伸ばす。すると指先が彼の手に触れて、びりびりと小さな電流が流れた。とっさに手を引っ込めようとしたのだけれど、不破くんはなんともない顔をしていたので何とか思いとどまった。きっと静電気のようなもので私一方にだけ感じられたのだろう。「ありがとうございます」と小さく言って手を引っ込める。

そのまま本を抱えて図書室を出た。バクバクと心臓がうるさい。私はそれを落ち着かせるためひとつ深呼吸をした。一歩踏み出すと心臓も少しだけ落ち着いたように思えたから、そのまま自室へと足を向けた。

部屋へ戻ると同室の友人はおらず、ただがらんとした空間だけがそこにあった。もし皆で集まってお喋りしていたらどうしようと思ったのだ。礼儀作法の授業のない日は大抵私も交じってこの部屋に集まってお喋りしているのである。戻ってきたもののそんな中勉強などとてもじゃないけれど出来ない。どこか行こうにしても今日は雨で行く場所がないのでこれは好都合だった。私はごろんと床に横になった。こんな格好で礼儀作法もあったもんじゃないと思うけれど、今日はもう疲れてしまった。

いつの間にかうとうとしていたらしい。「」と肩を揺すられて目が覚めた。目の前には友人の呆れた顔。「こんなところで寝て風邪引くよ。もう夕飯の時間だから眠いなら早くご飯食べちゃおう」目を擦りながら体を起こす。日は沈んでしまったらしく部屋の中は暗くなっている。一体どれほどの時間寝ていたのだろう。広げっぱなしだった本を汚してしまわなかったか焦ったが、どうやら紙が皺になることもなかったようだった。私はそれを丁寧に机の上に仕舞うと障子の前に立って待っていた友人のところへと小走りで駆けた。

食堂で再びキョロキョロと辺りを見回したが、そう一日に何度も遭遇出来るものではないらしく、目当ての姿はどこにもなかった。普段と変わらず友人たちと談笑しながらつつがなく食事を終えた。

お風呂に入って温まると、夜風の冷たいのが肌に刺さるようだった。腕をさすりながら部屋へ戻るとそのまま用意してあった布団へともぐりこむ。掛け布団の中で丸まっていると「まるで猫みたいねぇ」と友人は笑った。「おやすみ」と声を掛けると「また明日」と返ってくる。

目を閉じると瞼の裏に映りだされるかのように今日あったことが思い出された。

なんだか今夜は良い夢を見れそうな気がする。

(10.12.28)