雨音が響く廊下を私はひとり歩いていた。人気のない廊下を足早に歩いて、どこかひとりになれる場所を探していた。

「ひっどい顔だ」

振り返るとそこにいたのは友人の久々知兵助だった。どうしてこういうとき会いたくない人間にばかり会ってしまうのだろう。今の私にとって久々知は上から五番目くらいには会いたくない人間だった。どうせならあまり親しくない人間とすれ違うのならば良かったのに。見られるにしてもそちらの方がいい。きっと私の顔を疑問に思うかもしれないがそれだけで、声などかけてこないだろうから。私は放っておいてほしかった。せめて久々知でなくて、勘ちゃんだったなら良かったのに。事情を知っているにしても、勘ちゃんだったならそっとしておいてくれたかもしれない。

「何があったか当ててやろうか。どうせ雷蔵関連だろ」

私はうっと息を詰まらせてしまう。自分が人に指摘されるほどひどい顔をしているということにも驚いたが、さらには理由まで図星だった。私はそんなに分かりやすい人間だっただろうか。

久々知の言う通り私は雷蔵を探していた。きっと図書室にいるだろうと思って、そこへ向かう途中の教室から女の子の声が聞こえて足を止めてしまったのが間違いだったのだ。最初は、普段使っていない教室から声が聞こえるなんて変だなと疑問に思って歩みを遅くし、そのあと同じ場所から聞き覚えのある声がして私の足はぴたりと止まってしまったのだ。その声は私が探していた人物のものだったから。

何か喋っていることは分かったけれども、内容までは聞き取れない。けれども、こんな人気のないところで異性を呼び出してすることなんてひとつじゃないかと私はすぐに察しがついた。気が付くとギクリと体が強張った。聞いちゃいけないのに、聞きたくないのに、私はそっと足音を忍ばせてその部屋に近付く。少しだけ空いた障子の隙間から雷蔵の横顔が見える。その横顔が無表情に近いものからふわりとやわらかく微笑む様子が見えて。

 『好きだよ』

あんなにやさしい雷蔵の顔なんて見たことがなかった。決して私の前では見せない顔。あれが好きな子の前でしか見せない顔というものなのだろうか。本当にいとしそうな表情。いつもの雷蔵の表情だってやわらかいけれどもそれ以上のものが存在するだなんて知らなかった。

「もう諦めたら?」
「自分でもどうしてこんなに頑張ってるのか分からないよ」

諦めて、別の人を好きになれば楽だって分かっているのに。私が別の誰かを好きになるところなんて全然考えられない。雷蔵じゃない誰かの後ろ姿を追いかけて、誰かの隣を歩く私なんて嫌だ。

「ごめん、私もう行くね」

そう言って彼に背を向ける。兵助もそれ以上は何も言わなかった。ふと見ると雨が弱くなっていたので私はそのまま外に出た。霧のように細かい雨が私にまとわり付いた。こんな不快な天気で外に出る人なんていないだろうと、私はその中を歩いた。ここなら人に見られることもないだろうと校舎からも離れた木の下に腰を下ろす。きっと霧雨が私の姿を隠してくれる。膝を抱えてしゃがみ込むと細かい雨が私の装束をしっとりと濡らしていく。

失恋したときって、心臓はあまり痛くならないことを初めて知った。胸が痛くなるなんて嘘。でもその代わりに、喉のあたりがきゅって締まって、ぽろぽろと勝手に涙が出てくる。おかしいなぁどこも痛くないのに。ただ息をすることだけが少しくるしい。

袖で涙を拭う。目から溢れた水がどんどん吸い込まれていく。また俯いて大きく息を吐くと少しだけ気分が落ち着いた。そろそろ戻らなくてはならない。それは分かっていたけれども、今の顔で帰ったのでは同室の友人に心配されてしまうだろう。でもこうしていたら風邪を引いてしまうかもしれない。でも、逆に風邪を引いてしまえばいいとも思う。そうしたらこの目が赤い理由も熱のせいだと言い訳が出来るだろうから。

『雷蔵は、のことどう思ってるの?』

これもまた通りかかったときにたまたま聞いてしまったものだった。地面に立った勘ちゃんが縁側に座っている雷蔵にそう尋ねていた。勘ちゃんはきっと私のことを思って聞いてくれたのだと思う。私はそれを不快には思わなかった。

雷蔵はその質問に『どうって…』と一瞬悩むような表情を見せた。でもその顔は本当に一瞬だけで、すぐに眉を下げて笑った。

 『はもう、家族のようなものだよ』

そんなこと、とっくに知っていた。雷蔵はきっと私のことをとても大切に思ってくれている。それだけで喜ぶべきじゃないのか。雷蔵が私に恋愛感情を抱いていなくたって、私は大切にされていて、雷蔵のとても近いところにいる。それだけで満足するべきじゃないのか。

そのときは『あ、!』とたまたまこちらへ視線を向けた雷蔵に見つかってしまったから、泣いている暇なんてなかった。彼はとても無邪気に笑っていて、何もやましいことなんてないみたいだった。きっと雷蔵にとって先ほどの答えは当たり前すぎる答えで、それに疑問なんて微塵も持っていないのだろう。そんな彼に涙を見せることなんて出来なかった。

思えばこのとき失恋したと言っても良かったのかもしれない。このときに諦めるようもっと努力すれば良かったのかも。私は雷蔵の言葉にひどく傷ついたけれども、勘ちゃんの『まだこれからだよ』という励ましに乗せられてしまったのだ。まだこれから彼を振り向かせられるチャンスがあると、思ってしまったのだ。

でも、今回はもうダメだった。届かない現実を叩きつけられてしまった。もう、彼に一番近いのは私じゃない。好きだと言った彼の声が忘れられなくて、その言葉を向けられる彼女が羨ましくて仕方なくて、ぐるぐると胸の辺りで何かが動いていて気持ち悪い。いつの間にか涙は止まっていて、私はこの気分の悪さを誤魔化すためだけに俯いていた。

そうして顔を膝に埋めていたらふっと気配を感じた。頭の中でぐちゃぐちゃと考えていたせいで気付くのが遅れてしまった。こんなところに誰も来ないだろうと思い込んでいたせいもある。目の前のすごく近いところにその気配はあった。

 「

名前を呼ばれた。なんて残酷な世界だろう。神様はとてもひどい人だ。

「こんなところにいた」
「らい、ぞ…?」

顔を上げた先には今世界で一番会いたくない人物がいた。、と私を呼ぶ声が耳を打つ。じんじんと耳がしびれていく。彼はにこりと微笑む。私のよく見知った笑顔だ。いつの間にか雨は止んでいた。

「探してたんだ。兵助に聞いたらここだって言うから」

久々知はまた余計なことを言う。ちょっと考えれば私が今誰にも会いたくないことぐらい分かるだろうに。なんて鈍感なんだろう。しかも、一番会いたくない人に私の居場所を教えるなんて、ひどい。私は今雷蔵の顔は見たくなかったのに。

「そっか。探してくれてありがとう」

こうして喋っているとまるで失恋したことが嘘か何かみたいだ。虚構の中の出来事みたい。全然現実味なんて、ない。ああ、そっか。そんな感じで他人事のように感じている。ちゃんと笑顔のようなものだって作れるのだから人間の体って便利だ。声だって普通に出る。いつもの私と変わらない。

「どうしたの?」
「え?」
「なんだか泣きそうな顔をしてる」

そう言われた瞬間私は本当に泣いてしまいそうになった。喉の奥がなんだか苦しくなってじわりと涙が滲んできたけれども、私はぐっと息を詰めてそれをやり過ごした。

「何かあったなら僕に言って。きっと力になるから」

やり過ごしたのに、雷蔵が私の手を握る。彼の体温がじわりと私に伝わってきて。一度止まった涙がまたじわじわと出てきて視界を歪める。おかしい。本当にどこも痛くないのに。よく物語にあるような“胸の痛み”なんて全く感じないのに。ただただ涙がぽろぽろと零れてくる。

雷蔵はやさしいからずるい。雷蔵は私のことを本気で心配してくれているのだ。ひとりの友人として。下心なんて一切ない。分かっているのに、期待してしまうよ。でも私はこの人のそんなところが好きで。もう自分がどちらへ行ったらいいのか分からなくなってしまう。

もうこのまま気持ちを吐露してしまおうかと思った。もし今気持ちを伝えてしまったらどうなるだろう。きっと今まで通り友達には戻れないんだろうな。私はそれが嫌で。

「わ、!大丈夫?」

ぼやけた視界の中で雷蔵の慌てた声がする。それなのに私の右手は彼の両手にぎゅうと強く握り締められてしまって、逃げられない。目を瞬くと、私の右手を雷蔵がぎゅうと包むように握っていた。突然の状況に困ったような表情はしていたけれども、その瞳はしっかりと私を見つめていた。
 
すきだ。この人が好きだ。こんなにも好きなのに、どうして伝わらないんだろう。胸につかえた想いが涙になってぼろぼろ零れだしていくようだった。諦めるなんてこと、出来ないよ。どうやったらこの思いが消えてくれるのか、分からない。どうやったら忘れられるの?私は雷蔵じゃなきゃ嫌だよ。「…本当の」

「本当のことを言ったら、雷蔵は私から離れていってしまうかもしれない」

私は今の雷蔵との関係を一度解いて、新しいものを結びたいの。今度こそもっときつく、解けないように結びたい。でも一度この繋がりを解いてしまったら、もう二度と結びなおすことが出来ないような気がして。新しく結びなおすことを失敗してしまうことがずっとこわかった。

「私はそれがこわい」

ずっと結びなおしたかったのに、もう遅い。失敗することが分かっているから、もう解くことなんて出来ない。私が一番こわいのは雷蔵に拒絶されることだった。

と一番長く一緒にいるのは僕だよ。のことは僕が一番よく分かってる。今さら離れろと言われたって出来ないよ」

そう言って雷蔵は笑う。その表情に私の胸のすみっこがぽかぽかと少しずつあったかくなっていくようだった。雷蔵はずるい。私に対していつも不思議な力を使う。

「僕が今まで一度だってを嫌いになったことなんてあった?」

そう言って彼は私を安心させようとしてくれる。雷蔵がやさしいから私は勘違いしてしまうのだった。もしも彼が私の手をずっと握っていてくれるのなら、私は彼が私を好きになってくれるまで待とうかと思ってしまうのだ。今は別の子が好きでも、時間が経てば、いつかは私を見てくれるんじゃないかって。

「手、にぎってて。離さないで」

こちらからも少しだけ力を入れて指を曲げる。それでも彼の手は離れない。それに安心して彼の手をしっかりと握る。

「うん。ずっと握ってるから」

世界が終わるまでこの人が私の手を握っててくれればいいのに。どうか他の人の手は握らないで。

クロース・クラック