「

名前を呼ばれて、反射的に何も考えずに振り返ると予想以上に近くに人が立っていてびっくりした。それは本当もう私の真後ろ、ぴったりと張り付いていたと言っても過言ではなくて、私は慌てて数歩下がる。するとその人物の全体がやっと見えた。青紫の装束、ふわふわと広がった髪。こんな真後ろに立って驚かすようなのは絶対に三郎に違いないと思ったのだけれど、その人物はふわりとやわらかい笑顔を見せた。

「らいぞ…?」
、今日の髪型いつもと違う」

そう言って彼は私の髪に触れる。ドキリとした心臓の音が聞こえてしまわないか心配だった。確かに今日の私はいつもと少しだけ髪型を変えていた。でもそれはほんの些細なもので、おしゃれに敏感なクラスメイトだけが「今日のいつもと少し違くない?」と言う程度のもので、そんな誰にでも気づかれるような変化ではなかったはずなのに。気づかれてしまったことがなんだか少し恥ずかしかった。でも、それよりも、私の髪に触れる彼との距離がいつもよりも近くて、どぎまぎしてしまう。脳みそがだんだん熱くなってくる。まさか、好きな人に気づいてもらえるなんて。

「かわいいね」

その瞬間ぼわっと熱が湧いて出てきて何も考えられなくなった。思わずバッと彼から距離を取る。見上げるといつもと同じ笑顔がにこにこと私に向けられていて。その笑顔に私の心臓はさらに壊れたようになってしまった。

「あ、えっと、あ…」

私の口から出る音は言語になっていなくて、私はただパクパクと口を開いたり閉じたりして空気を取り込んでいた。酸素は足りているはずなのに頭がくらくらする。脳みそがぐるんぐるんして、立っていられなくなりそうだった。

結果私は逃げ出すことにした。

「あ、ちょっと待て!」

制止の声が聞こえたけれど私は振り返らなかった。振り返って戻って、また彼と顔を合わせることなんて出来ないと思った。だから私はその声を振り払って走った。

夢みたいだ。雷蔵にかわいいと言ってもらえるなんて。私は無意識のうちに自分の髪に触れる。すごくすごく嬉しいのだけれど、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。とりあえず誰かに相談しようと思って、私は三郎を探すことにした。前から三郎には色々相談に乗ってもらっていたから。からかわれる可能性が高いけれど、的確なアドバイスをしてくれるのも三郎で、私はいつも最終的には彼を頼っていた。混乱して逃げてしまったことも三郎ならきっと上手く雷蔵に言い繕ってくれるに違いない。そう思って私は廊下を走った。誰にでもいいからとりあえず誰かに話したい。私はこれからどうしたらいいのか教えてほしかった。

三郎がどこにいるかなんて知らないから、何も考えずに走った。頭の中にはただ言われた言葉だけがぐるぐると回っていて上手く物が考えられない。そんな中で見慣れた後ろ姿を見つけられたのは本当に運が良かったのだと思う。「さぶろう!」名前を読んで、彼が振り返る前に袖を掴む。

「さぶろう、聞いて!今雷蔵にかわいいって…!」
「え?」
「だから、さっき廊下でらいぞうに会って、そしたら髪さわってかわいいって」
「ちょっと待って。話がよく分からないんだけど」

そう言って彼は私に制止をかける。もう少し冷静になって話さなきゃと思ったけれど、深呼吸なんか出来なくて。頭の中で言葉を整理出来ないままぽろぽろと口から出てきてしまう。

「それで、私うれしくて、でもなにも考えられなくなっちゃって逃げちゃったんだけど」

顔に手を当てると思ったよりも熱かった。鏡を見ていないから分からないけれど相当赤い顔をしているのだと思う。ただこんな顔をしていたら三郎にバカにされてしまうだろうなぁ。たかがそれだけのことで何をそんなに喜んでいるのだと言われそうだ。でも私にとってはとても重大な事件で、今もオーバーヒートした頭は上手く働いてくれない。

「どうしよう、うれしすぎてしんでしまうかもしれない」

実際心臓は今まで生きてきた中で一番早くドキドキいっていて、上手く呼吸も出来ていない。これはここまで全力で走ってきたからだけじゃないはずだ。

「そんなに喜ぶこと?言われたのはたった一言だけだろう?」
「よろこぶよ。好きなひとにかわいいって言われたら」

他の人に言われたってこんな風にはならない。例えば三郎に言われたってこうはならないだろう。三郎は絶対そんなこと言わないだろうけど。そして三郎には私のこの気持ちは分からないんだろう。かわいいじゃ喜ばないだろうし、かっこいいも言われ慣れてそうだ。三郎に言ったってきっと理解してもらえないだろうに私はどうして言ってしまったのだろう。恥ずかしくて私は顔を上げられなかった。少しだけ下がった頬の熱がまたぶり返してきた。たった一言がこんなにも嬉しいなんて、おかしいことかもしれない。きっと彼にとっては何気ない一言だったはずだ。それなのに、私にとっては特別な一言で、それ以外何も考えられなくなってしまう。

「じゃあがしぬのはまだ少し早いね」

予想外の言葉が返ってきて少し驚いて顔を上げると、そこには顔を赤くさせた三郎がいた。三郎?三郎だけど、雷蔵の顔だ。でも三郎はこんな表情をするだろうか。こんな風に頬を染めて、困ったように笑うだろうか。こんなやわらかい表情をするのは

「不破雷蔵は僕だから」

三郎があっち。そう言って彼は微笑んだ。それと同時に私の思考も止まる。今目の前にいる彼が雷蔵?でも雷蔵はさっき向こうの廊下で会って。あそこからここまで先回りなんて出来るはずがない。だから私はここにいるのが三郎だと思い込んだのだけれど。

「雷蔵?え、うそ…」
「嘘じゃないよ。がさっき会ったというのがきっと三郎」

僕はずっと図書室にいたからね、と彼は言う。うそだ。今私の目の前にいるのが三郎で、彼は今雷蔵のふりをしているのだ。そう簡単に騙されてなるものか。そう思ったけれど、よくよく観察してみても表情は雷蔵のものだった。いや、でも三郎も本気になれば雷蔵になりきることだって出来る。でも、

「本当に雷蔵…?」
「そうだよ。なんなら髪を引っ張ってみる?」

そう言って彼は髪を前へ持ってきて差し出す。冷静に観察してみても彼は雷蔵にしか見えなかった。ここで三郎が雷蔵のふりをするメリットも思いつかない。でも私には三郎の考えることなんて分かりはしないから一応髪を引っ張ってみる。ふわりとした毛。ぐいぐいと引っ張ってみても取れない。

つまり、今目の前にいる彼が正真正銘の雷蔵で。

もしそうだとしたら私はなんてことを言ってしまったのだろう。

私をからかった三郎をうらむ気持ちなんてどっかいってしまった。それどころじゃない。三郎に打ち明けるよりも恥ずかしいことを私は言ってしまったのではないか。もう一度自分の言った言葉を反芻する。私は本人に告白まがいのことをしてしまっていたのではないか。

。ねぇ、こっちを向いて?」

そう言われても顔を上げられるわけがなかった。絶対に顔は真っ赤だし、どんな顔をしていいのか分からない。かといって、もう逃げることも出来なかった。今度こそ逃げることも出来ない。でも「」と名前を呼ばれてしまったら、私は魔法にかかったかのように、視線を上に上げさせられてしまって。雷蔵と目が合う。

「本当だ、かわいい」

彼の目が細められる。ああ、雷蔵の表情だ。どうして私はさっき間違えてしまったのだろう。よく考えれば待てと言った制止の声は雷蔵のものではなかったような気がする。あの時は頭がすっかり混乱してしまっていて、何も考えられなくなっていたから。だから、雷蔵のふりをした三郎を雷蔵だと思い込んで、そっちじゃない方が三郎だと勝手に思い込んでしまったのだ。

「三郎に先を越されてしまったのが、悔しいけれど」

今度こそ本物の雷蔵の手が私の髪に触れる。今度こそ私は地面に根が張ったように動けなくなってしまう。心臓はもう痛いくらいで、どこを見て良いのか分からなくなって視線が定まらない。きょろきょろしていると視線を動かしていると視界の隅っこに雷蔵の顔が映って、さらにどうしていいのか分からなくなる。本当に、本物の雷蔵にかわいいと言われてしまった。今度こそ本物だ。さっきだってすごくドキドキしたけれど、今はそれの比じゃない。雷蔵にまっすぐ見つめられて、ドキドキを通り越して、もう心臓が停止してしまってもおかしくないと思った。雷蔵にとっては三郎がそう言ったからという社交辞令以上の意味を持たないに違いないのに。

そっと雷蔵の指が私の前髪を払ってしまうから、私はさらにどうしていいか分からなくなってしまった。

しあわせの音