今日は図書室に雷蔵とふたりきりだった。

中在家先輩は町に本の買い出しに行っていて不在。試験の終わったばかりの図書室には生徒の姿はなく、代わりに窓の外から開放感に溢れた声が聞こえてくる。ふたりっきりの図書室で私は私は図書当番でも何でもないくせに雷蔵の隣に座り込んでいる。貸し出しカードの整理をしている雷蔵に手伝おうかと一応申し出たのだけれど「今日は人も来ないし、あまりすることがないからいいよ」とやんわり断られてしまった。正直仕事をしている雷蔵の隣で何もしないなんて申し訳ないと思ったのだけれど、あまりしつこくしてもいけないと思い私はおとなしく引き下がった。雷蔵に薦めてもらった本を読んだり、窓の外で元気に遊ぶ下級生を眺めてみたり、隣でてきぱきと仕事をする雷蔵を盗み見たりしていた。

雷蔵は貸し出しカードを一枚一枚丁寧に確認して、それを振り分けていた。未返却の図書がある生徒とない生徒や学年ごとにカードを分けているのだろう。台帳をめくる雷蔵の左手をぼんやりと眺める。

雷蔵と少しでも一緒にいたくて、断られないのをいいことにこうして図書室にまでついてきたのだけれど、雷蔵にとっては迷惑だっただろうか。

ぱらりと乾いた音とともに雷蔵の、骨ばった手が動く。私はそれを見てかっこいいなぁと思う。何もすることがなくて、雷蔵を見て、雷蔵についてずっと考えていると、彼のことがものすごく好きだなぁという気持ちが溢れてくる。

その手に触れたいな、と思った。

手だけじゃない、出来ることならぎゅーと抱きつきたかった。

少しぐらい触っても大丈夫だろうか。私がぺたりと腕を触っても雷蔵だったら気にしないだろうか。そう思って手を伸ばす。

けれどもその手はほんの少し雷蔵に近付いたところで止まってしまった。それ以上伸ばそうとしても動かない。まるで私の手が反乱を起こして、私の命令を聞いてくれなくなってしまったみたいだ。私の手なのに言うことを聞いてくれないなんておかしい。私はもう一度手を伸ばそうとしてみたけれど、やはりそれ以上はいかなかった。

手を引っ込めて近くで眺めてみたけれど特に異常はなかった。ぐっぱぐっぱと開いては閉じて開いては閉じてを繰り返してみる。正常に動く。私の右手は私の意思の通りに開いては閉じる。でもそれを雷蔵の方に伸ばそうとすると5センチほど近付いただけでそこで止まってしまう。ぴりぴりと指先が痺れて、まるでそこに見えない透明の壁があるみたいにそこから先に進むことが出来ない。もしかしたら私の手がおかしいんじゃなくて本当に雷蔵と私の間に見えない壁があるのかもしれない。比喩表現ではなく本当に透明の壁があるから私は雷蔵に触れることが出来ないのかもしれない。もしそうだとしたらなんだか悲しいなぁ。

「どうかしたの、

私がぐっぱぐっぱしながら全然思い通りにならない右手を見ていたら声が降ってきた。顔を上げると雷蔵がこちらを見て微笑んでいた。今の行動を見られていたらしい。傍からみたら相当変な動きをしていたのだろう。恥ずかしい。

「あ、うっ、えっと…」
「手冷えちゃった?」

正直に答えられるはずもなく、私が言いよどんでいるとそう言って雷蔵は私に手を伸ばす。壁にぶつかって雷蔵が突き指しちゃう!そう思ったけれど雷蔵の左手は見えない壁をするりと通り抜けて私の右手に触れた。雷蔵はなんともなかったみたいなのに、彼の指先が触れた手の甲から私の全身に痺れが広がる。

「図書室は火気厳禁だから寒いよね。ごめんね」

雷蔵は私の両の手をとった。私のものよりも随分大きな雷蔵の手が私の手を包み込んだ。私が手を動かしているのを見て勘違いしたのだろう。別に元々冷えてるわけでもなかった私の手は熱いくらい熱が上がって、それは頬まで上ってきた。

「ら、雷蔵、私は大丈夫だから!別に寒くないよ」
「無理しなくていいんだよ。つらかったら先に帰ってもいいから」
「そうじゃなくて。本当に大丈夫だから。…手、はなして」

雷蔵に触りたくて、やっと触れ合えた手のはずなのにとっさに私は離してなんて言ってしまった。ずっと雷蔵に触れたかったはずなのにいざ雷蔵に手を握られるとどうしようもなく恥ずかしくて。雷蔵の顔すらまともに見られなくなってしまう。ついさっきまでは彼の横顔を穴が開くほど見ていたくせに。

「ああ、ごめん」

パッと手を離されて、力の抜けた私の両手は膝の上にぽとりと落ちた。まだジンジンと痺れる指先はまだ力が入らなかった。

そうじゃなかったのに。

さっきまで熱かった手のひらは急に熱を失ってスースーする。雷蔵は「本当に寒かったらちゃんと言うんだよ?」という言葉を残して、また図書カードを仕分ける仕事に戻ってしまった。その言葉はまぎれもなく私を気遣うもので、そうやって気に掛けてもらえて嬉しいはずなのに、何かが物足りない。

今日の私はどこかおかしいみたいだ。

またむくむくと雷蔵に触れたい気持ちがわきあがってきて、手を伸ばす。けれども、またさっきと同じ5センチのところで手が止まってしまう。それでもぐっと力を入れるとするりと今までの苦労が嘘のように手は壁を通り抜けた。そのまま雷蔵の服の袖に触れる。雷蔵はもうすっかり机に向き直って、手元の貸し出しカードを見ていたのだけれど、ちょいちょいと私が裾を引くと手をピタリと止めた。雷蔵は委員会の仕事をしているのに邪魔だったかなと今さら思う。こんな風に私が雷蔵にちょっかいをかけていたのでは、いつまで経ってもカードの整理は終わらないに違いない。さっき何でもないって言ったくせに、何がしたいんだこの女と思われても仕方ない。

「ん、やっぱり何かあった?」

振り向いた雷蔵の表情はやわらかくて、本当にやさしくて、私は涙が出そうになってしまった。どうしてこの人はこんなにも優しいのだろうと思う。

「あの、雷蔵に触ってもいいかな」

「お仕事の邪魔はしないから」もうこの時点で十分邪魔をしているだろうに、今さら何をと思うけれども、私は必死だった。きっと変な子だと思われたに違いない。いや、今までだって手を握ったり開いたりして変な動きをしていたのだから今さらかもしれない。これはもう拒絶されたって仕方がない。、君気持ち悪いよと真顔で言われても仕方がない。

「いいよ」

変な子だと思われることを覚悟していたのに、意外にもすんなりと許可が下りた。雷蔵のことだからどうして私がそんなことを言い出すのか悩んでしまったり、不審に思ったりすると思ったのに。私は自分からお願いしたくせにびっくりして言葉に詰まってしまった。

雷蔵はそれだけ言ってまた机に向かう。手元を見ると残りのカードはあと少しだった。こんな中途半端なところで中断したくなかったのだろう。許しをもらったものの、改めて好きに触れても良いといわれると私はどうしたらいいのか分からなくなってしまった。本当はぎゅっと抱きつきたいくらいだったのだけれど、さすがにそれはどう考えても仕事の邪魔になるだろうと思って諦める。代わりに雷蔵のもふもふとした髪に触れる。ふわふわとした毛先を触っていると楽しい。思い切って右手を髪の中に埋めてみる。雷蔵の髪は本当に触り心地が良い。

次は背中に触れてみたくて、そっと、手のひらを合わせてみる。すると雷蔵の肩がびくりと揺れた。これはやっぱりダメだったみたいだ。邪魔をしてしまうと思って慌てて手を離す。髪と違って背中には感覚があるのだから当たり前だ。

それにしても雷蔵の背中は大きい。手もそうだったけれど、雷蔵と私の体はどこもかしこも大きさが違う。どうして雷蔵の体はこんなにがっしりしているのだろう。ご飯はいつも食堂のおばちゃんの作ってくれた同じものを食べているはずなのに。雷蔵の背中は大きくてかっこいい。

もう一度だけ。雷蔵の体温を感じたくて指先をちょんと、ほんの少しだけ背中につける。触れたのは本当に指先のちょっとした面積だったのに。

バッと雷蔵が振り返る。彼の髪が私の鼻先を掠めてくすぐったかった。けれどもそんなことを悠長に思っている暇はなく、肩を引き寄せられて、私の顔はトンと軽く雷蔵の胸にぶつかった。そのままぎゅうと背中に腕を回されて、私は息が詰まってしまった。

「もう、は一体何がしたいの?」

一瞬雷蔵が怒ってしまったのかと思った。私がちょんちょん触って邪魔をするから、仕事に集中出来ないって怒ってこうして私の動きを封じるという手段に出たのかと思った。けれども、何がしたいのと尋ねる雷蔵の声には呆れの色が含まれてはいたけれど、私を非難するような棘はなくて。よく考えるとこの体勢は雷蔵に抱きしめられていると言えるんじゃないかって気が付いた。

気が付いてしまうと、さっきまで引いていた血が一気に顔に上ってきた。顔から火が出てしまうんじゃないかってくらい熱かった。

「やっぱり、お仕事の邪魔しちゃった?」
「うん。全然集中出来ない」

やっぱり迷惑だったんだ。慌てて雷蔵から離れようとしたけれども、彼の腕ががっしり私を抱きしめていて身動きが取れなかった。

「らいぞ、はなして…」
「ダーメ。さっきもそう言ったでしょ」

その通り過ぎて私は反論出来なかった。それに何より今度は触ってもいいかと尋ねたのは私なのだ。こうして願いが叶っているのに何が不満なのだと今度こそ怒られても仕方がない。

「ね、はどうしたいの?」

顔に、肩に、背中に触れる雷蔵の体温にぐらぐらと頭が煮えてしまいそうだと思った。心臓はバクバクとねずみのように速い速度で鳴っている。

「えっと、やっぱり寒かったみたい、です」

怒られたり呆れられたりするかなと思ったけれど雷蔵は「そう」と言ったきり黙ってしまった。黙ってしまったけれど、私を抱きしめた腕の力はゆるまなかった。それどころか少しだけ強くなった。

そのことに調子に乗って私も雷蔵の背中におそるおそる腕を回してぴったりとくっつくと、どくんどくんと雷蔵の心臓の音が聞こえてきた。その規則正しい音と私を包み込む彼の体温を感じているとひどく安心した。私はそっと目を閉じて、ずっとこうしていたいなと思った。

指先から熱