このまま心臓が私の体から飛び出てしまうんじゃないかと思った。そうじゃなくてもこの心臓の鼓動はおかしい。胸に手を当てれば激しく血を送り出しているのが感じられたし、手を当てなくたってドキドキと音が聞こえてきそうなほどだった。廊下を静かに歩いているだけなのに、こんなのおかしい。まるで全力疾走しているみたいだ。原因は分かってる。今日こそ彼に話しかけようと思っているからだ。不破くんに。それを決心して私の足は図書室に向かっているのだ。なんでそんなことを決心したかというと友人に後押しされたからで、でも本当は私がそうしたいとずっと願っていたからだ。後押しされないと動けない小心者の私は今なけなしの勇気をかき集めて図書室へ向かって歩いているところなのだ。

静まれー、私の心臓ー!

小さく声に出して念じる。どうやったら不破くんに自然に声を掛けられるだろう、と必死で考えてしまう。別に不破くんは図書委員なのだから普通に声を掛ければいいと分かっているのに、それでも変に声を掛けてしまわないかどうか心配になる。何度も頭の中で最初に話しかける言葉を繰り返す。もしも、不破くんが万が一貸し出し当番じゃなかったらどうしようとか、貸し出し受付の場所にいなかったらどうしようとか、余計なことまで考えてしまって、その度に私は一度立ち止まって大きく息を吐いて落ち着かせる。そうしないと頭も心臓も爆発してしまうと思った。

深呼吸をして少しだけ落ち着いたところで図書室の扉を開けた。図書室に入ると扉のすぐ前、受付カウンターにその人はいた。ドキドキしながらその前を通って本棚の陰に入る。ドキドキしたけれども、彼は俯いてこちらを見てはいなかった。仕事をしていたのか、それとも本を読んで暇を潰していたのか分からなかったけれど、私が入ってきたことなど気にも留めていないようだった。もし、目が合ったらどうしよう、とかいう私の心配はまさに杞憂だった。そんなことが起きるわけがない。私は気持ちを切り替えて借りようと思っていた本を探すことにした。読みたいと思っていた本は数冊あったけれどどれもすぐに見つかった。タイトルが気になった本、友達に薦められた本、前回借りた本の続きなどを積み重ねて抱える。そうしてもう一度貸し出し受付をちらりと見る。彼は先程と変わらずそこに居た。

不破くん、この本の貸し出し手続きをお願いします。

言おうと思っている言葉はたったこれだけ。本当に事務的なことだけだ。それなのにどうしても緊張してしまう。きっと顔も赤くなってしまうだろうと考えるととてもじゃないけれど気が気でない。

「あの、不破、くん…!」

心臓がひどくドキドキ言っている。ただ名前を呼んだだけなのに、こんなにも緊張している。一度でいいから彼の名前を呼んでみたくて、思い切って言ってみたけれど、今では少し後悔していた。「あのう」と声を掛けるだけでも用は足りたのだ。その後に彼の名前を付け足したのは私の選択だ。一度もきちんと会話したこともないのに、こんなことして不自然ではなかっただろうか。何で名前を知っているのかと怪しく思わないだろうか。それとも不破くんは成績優秀で優しいと有名だから、知らない生徒が名前を知っていることに慣れているかもしれない。何も感じていないかもしれない。彼が顔を上げるまでの一瞬がとても長く思えた。

「ああ、気付かなくてごめん、さん。貸し出し手続きだね?」

そう言って彼は微笑んだ。いつも本の手続きをしてもらうときに見るのと同じ笑顔だけれども、いつもと違うことが。いつもは「ああ、貸し出し手続き?」と聞いてくるだけなのに。私の体は彼の声に縛り付けられたように動かなくなってしまった。不破くんは当然本の貸し出し手続きだと思って私が胸に抱えている本を受け取ろうと手を出しているのに、本をしっかり抱え込んだまま固まってしまっている。不破くんの手の行き場がなくなって困った顔をさせてしまうのに、

「……どうしたの?」
「あ、え、どうして私の名まえ」

やっと口を動かしてそれだけをたどたどしく言う。どうして不破くんが私の名前を知ってるの?私が不破くんの名前を知っていることは全くおかしくないけれども、逆はないはずなのに。私は成績優秀というわけではないし、顔だって良いわけでもなく、かといって問題児という意味で有名ということもない。ただの平凡な女子だ。目立つことは何ひとつないのに。私が動揺している原因に思い当たったのか彼は「ああ、」と納得したような顔をした。

「貸し出しカードだよ。名前書いてあるでしょ?」

確かに貸し出しカードに名前は書いてあって、私はいつも不破くんにそのカードを出しているけれども、私はその他大勢の中のひとりの利用者にすぎない。それなのに名前を覚えていてくれたのかと思うと心がぽっと温かくなった。

「ありがとう、おぼえててくれて……」
さんよく借りに来てくれるから」

これは、もしかして、不破くんと仲良くなるチャンスなのではないでしょうか。何か会話を続けなきゃ、続けなきゃ。でもそう思えば思うほど頭の中から言葉が口以外のところから零れていってしまうようで、結局一言も口からは出てこない。何か言わなきゃ。不破くんが貸し出し手続きを終える前に。でも私が発したのは、

「あの、ありがとう」

の一言だけだった。しかも何に対するお礼だか分かったもんじゃない。もっとちゃんと喋りたいのに、相変わらず私の頭は真っ白でこれ以上何も言えないと思った。

「いつもそこの日当たりのいい席で本読んでるよね?」
「えっと、あたたかいから……」
さんはいつも沢山借りてってくれるからこっちも仕事のし甲斐があるよ。それでも返却期限は絶対守ってくれるから助かってる」

不破くんが、話しかけてくれている。話しかけてくれてるのに私は全然話せない。不明瞭な答えを言ったあとに、ああこう言えば良かったと少しはマシな返事が思いつく。不破くんが次の言葉を言っている間に思いつくから言い直せない。そして次の言葉にも上手く答えられないのだ。

「いつも図書室に来ているけど、図書委員にはならないの?」
「他に図書委員やりたい子がいるから、」

実際図書委員は人気が高いのだ。仕事が他の委員会に比べて楽だし。そしてもうひとつ、不破くん目当てで図書委員を希望する女子が多いのも事実だ。私がそんな競争に勝てるはずがなく。いくらよく図書室を利用すると言ったって、下心があるのは私も一緒なのだ。本を読んでたって読んでなくたって、本が好きだってそうじゃなくたって、下心があるのなら私だって他の子たちと一緒。不破くんがいなくったって図書委員をやりたいと思っていたなんて主張は意味を成さない。

「そっか、残念だな。さん図書委員に向いてそうなのに」

と不破くんが言う。それと同時に手続きが終わったらしく、本を手渡される。「ありが と う、」と途切れ途切れにお礼を言って、くるりと踵を返して、図書室を出る。まるで逃げているようだ、と自分で思った。

どうして上手く喋れないんだろう。胸に抱えた本をギュッと握り締めて思う。この本の主人公のように明るく好きな人に話しかけられればいいのに。冗談のひとつでも言えればいいのに。毎日、もしも不破くんと喋れたら、と考えているのに、実際彼が話しかけてくれたというのに満足に返事ひとつ出来ない。きっと不破くんは私を変な子だと思ったに違いない。頭の中の理想の私と現実とはあまりにも懸け離れていて絶望する。それなのに、

それなのに、もしまた不破くんが私に話しかけてくれたなら、なんて思ってしまうのだ。何を喋ろうかなんて考えても意味のないことなのに。思っていることの10分の1も伝えられないのに。
 

ディスコミュニケーション
それでも話したくて、少しでも伝えたくて