誰かが廊下をドタドタと歩く音で目が覚めた。重い頭を持ち上げてうっすら目を開けると朝日が差すように僕の目を眩ます。ああ、この足音は授業に向かう生徒の足音かぁ、なんてボーっと考える。…授業に向かう生徒?ガバァと勢いよく布団を撥ね退ける。いったい今何時だ?隣の布団を見ると三郎がすっきりした顔で「おはよう雷蔵」とさわやかに挨拶してきた。布団に入っていたし服も夜着のままだったけれども、どう見ても寝起きの顔じゃない。

「なんで起こしてくれなかったの!」
「いやぁ、雷蔵寝てるし、たまには授業サボって寝るのもいいかなと思って」
「良いわけないでしょ、三郎のバカ!」

こんな風に寝坊してしまったのは昨日遅くまで読んでいた本と目が覚めていたのに起こしてくれない三郎のせいだと八つ当たりぎみに恨みながら、手早く制服に身を包み、適当に髪をまとめる。三郎の方を見るとさすが変装名人と言うべきか、すでに身支度が整っていた。

「ほら、行くよ」
「ちぇー」

まだ渋る三郎を半分引きずるようにしながら廊下を早足で歩く。急げばまだ食堂で朝食を掻き込む時間はある。ダメならとりあえずおばちゃんにおにぎりでも握ってもらって合間に食べよう。慌ただしい朝食だけれど仕方ない。ああ、今日の最初の授業はなんだったけ?座学だったと思うけれど、もしも実技だったらちょっときついな。

「あ、おはよう。不破くん、鉢屋くん」

ふっと声を掛けられて見るとそこにはよく図書室で見かけるのさんがいた。姿を見とめ、「おはよう、さん」と立ち止まって挨拶をすると、後ろで三郎も「よぅ」と軽く彼女に挨拶するのが聞こえた。急いではいたけれども、まだ始業までもう少し時間があるので良いかと思ってつい足を止めてしまった。そして何より彼女に声を掛けられるのが珍しかったから。よく図書室を利用する彼女の顔を僕は覚えていたけれども、僕と彼女の関係はせいぜい顔見知りぐらいで、廊下などで出会えばちょっと会釈する程度だ。そんなに親しい仲じゃない。いつも彼女とは短い会話しかしたことなかった。本の貸し出しと返却の際の事務的な会話や新刊情報などを教えてあげたり少しぐらいは話したことはあったけれど、個人的な会話なんてしたことなかった。もう少し喋ってみたいという気持ちはあったけれど、そんな機会は今まで一度もなかったのに。

「不破くん今日寝坊したの?」
「えっと、その、まぁ…」

しどろもどろになりながら曖昧な答えを返す。どうして彼女に会うのがよりによって今日なんだ。どうして僕はよりによって今日寝坊してしまったんだ。寝坊なんて少し格好悪いじゃないか。せっかく話しかけてくれたのに。格好が付かなくて視線を外すけれど、彼女がまっすぐこちらを見つめているのがはっきりと意識できた。

「不破くん、」
「え、何?」
「なんだか羽生えてるみたい」

そう言うと彼女はすぅっと手を伸ばして僕の横髪に触れた。髪に神経はないはずなのに触れられた部分がびりびりと痺れるかのような感覚に襲われた。その髪がひょいひょいと彼女の手によって跳ねるのが横目で見えた。今日は髪を整えることもせず大雑把に結っただけだから寝癖で髪が跳ねたままだったのだろう。顔に熱が集まるのが分かった。きっと、彼女は何も考えてはいないのだろうけれど、そうは分かっていても顔の近くに手を伸ばされたら勘違いしてしまう。僕はすっかり動けなくなってしまっていた。「不破くんの髪ってやわらかくて本当に羽みたい」と笑顔を向ける。その顔は彼女の腕一本分も離れていない。

「雷蔵、先行っておばちゃんにおにぎりもらってくるからな」

すっかり存在を忘れていた三郎が楽しそうな声でそう言い、軽やかな足取りで食堂へ向かって行った。うわぁ、絶対あとでしつこく色々聞かれるよ。面倒くさいなぁ。そんなことを思いながら視線を戻すと目の前には手を下ろしたさんがにこにこと僕に笑いかけていた。う、わ、

「不破くんが寝坊ってちょっと意外。朝弱いの?」
「いや、いつもはそういう訳じゃないんだけど。昨日の夜遅くまで本を読んでたせいで、今日は偶々…」
「そっか。でもその気持ちよく分かるな」

そろそろ寝ないとって思ってるのについ読んじゃうんだよね、と彼女は目を細めながら僕に言う。それに対して僕は「うん、そうだね」とよく分からない答えを出すのが精一杯だった。こんなところを友人に見られたら散々笑われてしまうだろう。廊下にあまり人通りがなくて良かったと心の底から思った。何か会話の続きを見つけなきゃと僕の心は焦っていたけれども、一年生の騒がしい声と駆ける足音が向こうの廊下を通り過ぎていって、そろそろ始業時間が近いことを知らせていた。時間切れだ。

「あ、引き止めちゃってごめんね。鉢屋くんにも悪いことしちゃったかな」
「いや、大丈夫だよ。さんこそ時間平気?」
「ありがとう。また時間あるときにお話しようね」

そう言って彼女はパタパタと廊下を駆けていった。僕は彼女の姿が見えなくなるまでその揺れる髪から視線を外せず呆然と固まっていた。「また」?またということは次回もあると期待してしまっても良いのだろうか。彼女は僕と話したがっていると勘違いしてしまいそうになる。単なる社交辞令かもしれないというのに、また彼女と話す機会があるかと思うとどうしようもなく嬉しくて仕方なかった。そんなのこちらからお願いしたいくらいだというのに。もしも、また彼女が今日みたいに話しかけてくれたらいいのに、と思った。ずっと彼女のことをもっと沢山知りたいと思っていた。話しかける機会も話題も見つからなくていつも自分から話しかけられずにいたけれど、もしも彼女も僕と話したいと思っていてくれたなら。

「話し掛けても、いいのかな」

君の笑顔をもっと見ていたいんだ。もっと彼女のことを知りたい。今度は寝坊のしていないたっぷり時間のある朝食時に沢山喋ってみたい。食堂で話しかけたら迷惑だろうか。でも、

「だーれに話しかけるって?」
「うわ、三郎!」
「ほら、おばちゃんからおにぎりもらってきてやったぞ。詳しいことは後でゆっくり聞こうか」

にやにや笑いを浮かべる三郎とともに今度こそ駆け足で教室に向かう。それでも明日のことを考えるだけで心がなんだかあたたかくなる気がした。何かが心の中に降り積もるような心地。それでいて体が軽くなってどこへでもいけそうな気がする。明日が来るのがこんなに楽しみだなんて、おかしいかな。

 

根がひとつ

「今日は羽ないの?」「今日はないよ…!」