右手でスイッチを探り当てて押すと、パッと一瞬で部屋の中が照らし出された。見慣れた部屋が目の前に広がる。私は一直線にベッドへ向かうとその上にパタリと倒れこんだ。仕事が疲れたわけでもないし、体調が悪かったわけでもない。しかし心臓はいつも以上に血液を送り出しているし、顔もかっかと火照っている。寒い外を歩いて帰ってきたなんてまるで嘘みたいだ。ごろりと仰向けに転がると、蛍光灯の明かりが眩しかった。手をかざして光を遮ると、自分の手の甲に書かれた文字が目に入った。

手の甲いっぱいにマジックで大きく書かれた11桁の数字がはっきり見えた。何度瞬きしてみても、手を開いたり閉じたりしてみても消えないそれは数十分前の出来事が夢ではないことを示していた。

とりあえずお風呂にでも入って落ち着こうと思ったが、そんなことしたらマジックで書かれた番号は消えてしまうことに気が付いた。番号を紙に控えることも考えたが、やっぱりやめた。

――帰ったら手を洗う前に電話してね

彼の声が頭の中で再生される。彼とはそれなりに親しかったつもりだったけれど、もう何年も連絡を取っていなかったのに。突然目の前に現れて携帯の番号を書きつけていくなんて、一昔前の小説や映画のようだ。それでも綾部がやると違和感がないのだから困る。

私は右手の手のひらに左の指を這わせた。今さら綾部に触れた部分が熱を持ってきた。綾部が現れたとき夢幻ではないかと思ったが、触れた綾部の手はきちんと実体を持っていた。本当に本当のことだったのだ。

高校生のころ、私は実は綾部のことが好きだった。でもそれは本人に告げるほどのものではなく、こっそりとただ想っているだけだった。綾部と一緒に帰れた日はラッキーだったなぁと思うその程度のものだったのだ。そのはずなのに彼の存在は一体頭のどこに残っていたのだろう。

ボタンを押す指が震える。これ本当に綾部の携帯番号なんだろうか。もし違ったら、からかわれただけだったらどうしよう。そんなことを考えながら11番目の数字を押す。これで発信ボタンを押したら終わりだ。一度大きく息を吸い込んでから、思いっきり吐く。少しだけ心臓の動悸が収まったような気がした。

もうどうにでもなれという気持ちで発信ボタンを押す。ゆっくりと携帯を耳元へ持っていくとちゃんとコール音が聞こえた。一応どこかへ繋がっている、存在する番号らしい。

コール音が一回、二回。三回目の途中でそれが途切れた。私の心臓はまた一層大きく跳ねた。「もしもし、綾部ですけど」とさっき聞いたのと同じ声が受話器越しに聞こえてて来てまたドキリとした。

「あ、もしもし、私」

声が少し裏返った。電話をかけるときは声が変わってしまうことが多いが、いつも以上だ。一体どれだけ緊張しているのだ。

?」
「あ、そうです」

もし私が詐欺師だったら綾部は簡単に引っかかってしまうんじゃないかと思う。振り込め詐欺の常套手段だ。それを言うと綾部はあっさりと「の声ぐらい聞き分けられる」と言ってのけた。あんな裏返った声でよく私だと判断出来たと驚く。綾部は耳がいいのだろうかとそこまで考えて、帰ったら電話をかけろと自分で言ったのだから私だと見当がついて当たり前だ。

「電話かけたけど?」

綾部に見えるわけではないのに私は胸を張って言う。そんなに偉そうにいうことでもなかったなと言ってしまってから後悔する。綾部はそんなこと気にするようなやつじゃないって分かっているのだけれど。

「うん、じゃあ今度会おうか」
「え?」
「いつ休み?」

綾部が何を言っているか分からなくて聞き返すと、さも当たり前と言った感じに淡々とした返事が返ってきた。

「だって僕が何してるか知りたいんでしょう?」

知りたい。知りたくないと言ったら嘘だ。そうなのだけれど、どうしてこういう展開になるのか分からない。私の脳みそ勝手に都合のいいことばかりを考えてしまう。ずっと昔に置いてきたはずの気持ちを思い出しそうになる。

「実際見ないと信じないだろうから」

綾部の言うことは正論だ。口で言われたって信用出来なかったし、実際探偵助手だと言われただけでは信じれなかった。見ないと分からないと言ったのは私だったけれど、まさかこんな風に約束を取り付けられるなんて思わなかった。電話をしたら本当のことを教えてもらえると思っていたのだ。ということは綾部は本当に探偵助手の仕事をしている?

「次の休みにお昼でも一緒にどう?」

気を抜いたら携帯を持つ手の力が抜けてしまいそうだった。相手は綾部なのだから過度な期待はしてはいけないと自分に言い聞かせるのだけれど、結局その彼の一言一言に心臓が振り回されてる。


2011.06.16