暦上ではそろそろ春になってもいい頃だというのに今日は特別寒かった。仕事が終わって帰ろうと身支度をしていると同僚が私を見てくすりと笑った。

ちゃんそれマフラー巻きすぎじゃない?」

昨日まで少しずつ春に近付いているようだったからコートも薄めのものを着て来てしまったのだ。その埋め合わせというわけではないが、持ってきたマフラーは最大限有効活用するようにしっかり巻いていた。「だって寒いんだもん」と言うと彼女は再び小さく笑って「風邪引かないようにね」と言って帰り支度を終えた私に手を振ってくれた。

「おつかれさまでーす」

そう言ってドアを開けると冷たい風がぴゅうと吹いた。私は思わず顔をマフラーに埋めるように首を引っ込める。手はもちろんポケットの中だ。口から出る息は白かった。私はマフラーの隙間から出る白い息を見ながらこんな風に歩いていたやつがいたなぁと高校生の頃を思い出していた。

彼、綾部喜八郎は私の同級だった。特別仲が良かったわけではなかったけれど、何故だかたまに一緒に帰ることがあった。確か帰る方角が一緒だったのだと思う。綾部と一緒に帰ることになったうちの何回かは彼の友達と一緒にファーストフード店に寄り道したこともあった。あの頃は何もかもが楽しかった記憶しかない。

彼を思い出すときはいつも冬の景色だ。冬はいつもコートを着て、マフラーをぐるぐると顔が隠れるんじゃないかってくらいしっかりと巻きつけていた。鼻の辺りまでマフラーに埋めてその隙間から出てくる白い息に私たちは大笑いしたものだった。

懐かしいなぁとあの頃のことを考えながら歩いていると、私と同じようにマフラーで顔の半分を覆ってポケットに手を入れて背中をまるめている人が歩いてきた。おそろいだなと思っているとその人物が私を避けることなく迫ってきて、目の前で止まった。

「…なにしてるの?」

私を指差して心底不思議そうに言う。顔の前で指を指すのはやめてほしい。驚いたっていいじゃないか。その人物の顔は私が覚えている綾部喜八郎の顔とそっくりだったのだから。

「本物の綾部?」
「綾部だけど?」

こんな表情は綾部がよくしていたものだけれど、もしかしたら他人の空似かもしれない。何年ぶりかの再会なのに、まるでつい昨日会ったかのように話しかけてくるのはいかにも綾部っぽいが、私の勘違いかもしれない。でも彼は学生時代と同じようにマフラーに顔を埋めて白い息を隙間から吐いている。

「久しぶりとかそういう挨拶しないからやっぱり綾部だ」
「だから最初から僕だって言ってるじゃないか」

普通は町中で旧友と会ったら『久しぶり』だとか、卒業してから連絡すら取っていないのだから『今何してるの』だとか色々あるだろうに、一向にそういう話はしてこない。そういうところは変わっていないなと思う。私は聞きたいことがいっぱいあるのに。

「綾部って今何してるの?」

綾部と仲の良かった平と田村は一流大学に進学して、一流の商社に就職したと噂で聞いた。タカ丸さんはあの頃からの夢だった美容師の道を当然のように進んでいるらしい。しかし綾部の噂はめっきり聞かない。一応進学はしたらしいがその後は全く謎である。成人式のときに一度だけあった同窓会に綾部は出席していなかったし、自分から情報を集めたりはしなかった。興味がないわけでも、知りたくないわけでもなかったのに。

「探偵」
「えっ?」
「…の助手」

探偵でも探偵助手でもどちらにしろ胡散臭いことには変わりない。綾部が嘘を吐いているのではないかと思って表情を確認したが、いつもと変わらない飄々としたものだった。綾部は表情が読めない。それは分かっていたはずなのに。

「信じてないでしょう」
「普通冗談だと思うよ」

けれども、かと言って綾部が他にどんな職についているのかと聞かれれば答えに窮する。真面目な会社員など想像出来ない。かと言ってフリーターというのも想像出来ない。アルバイトでコンビニの店員すら出来そうにないというのはさすがに綾部に失礼だろうか。でも営業スマイルの綾部なんて想像出来ない。そういう笑顔の綾部が見れるのならそのバイト先のお得意様になりたいくらいだ。

それを考えれば探偵助手という胡散臭い仕事は綾部に似合っているような気がした。探偵助手というものが具体的にどのような仕事をしているのか分からないが。私のイメージなど所詮推理小説からのものでしかない。探偵助手というと一番最初に思い浮かべるのがワトソンなのだが、別にワトソンは探偵助手を職業にしているわけではない。そもそも現代ではない。現代の探偵助手というものに興味がある。

「本当にそんな職業があるだ?」
「どちらだと思う?」
「やっぱり嘘なの」

私が口を尖らせて言うと綾部は「さぁどちらだろうね」と言って楽しそうに笑った。私をからかって遊んでいるのだ。そうやって綾部は昔から私を惑わせた。

「連絡先教えてあげるから確かめにきたら?」

そう言って綾部は目を細めた。まるで私がそれを知りたがっていたことを知っているみたいだ。私が綾部のことを考えていたらタイミングよく現れたように、綾部はそういう人の考えを読み取れる能力を手に入れたのかもしれない。もしかしたら探偵助手という職業で培ったスキルなのかもしれない。そうすると探偵助手をやっているというのは本物なのだろうか。

「ほら、手出して」

そう言って綾部は私の手を取るとどこから出したのかマジックで私の手の甲に番号を書き始めた。どうしてそんなところに書くのだ。言ってくれれば携帯を取り出すから赤外線でアドレスを交換すればいいのに。

「帰ったら手を洗う前に電話してね」

そう言って綾部は元来た道を引き返して行った。どうして戻っていったのだとか、登録するだけじゃダメなのかとか、どうして綾部はそんなに普通な態度なのかとか色々聞きたいことはあったけれども綾部の背中はもう随分と小さくなっていた。相変わらず歩くのが早い。こうなったら帰ったら全部電話で聞いてやろうと思う。私は番号の書かれた右手をぎゅっと握りしめた。


2011.05.29